アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

人の目や世間体を気にするようになったのはいつからだろうか ‐補足‐

こんばんは。さきこです。

補足、というかタイトル的にはこれがメインなのでは、というお話が今回です。

テーマは「人の目を気にしなくなったのは何故なのか」。

何故、を問う前に、具体的にいつから気にしなくなったのかを考えてみます。

 

それは、もう本当に最近のことで、北海道に行ったことがきっかけです。理由はとても簡単で、単純に人の目がなかったからです。

 

※北海道話についてはこちらをどうぞ。

vegetaboo.hatenablog.com

 

見渡す限り自然で、関わる人も本当に限られる生活。街に出ても自分と同じような状況の人はいるにはいるけど、そんなに見ない。要は比較対象が少ないのです。

首都圏には人がたくさんいます。同じくらいの年齢、同じくらいの背格好、同じような仕事をしているのだろうな、と思う人。自分と近しいと思える人がたくさんいる。その人たちと自分を私は知らず知らずのうちに比較していました。あの人は私より細い、あの人の靴おしゃれだな、あの人よりは私の方が仕事出来そうだ、等々。その感情は大抵良いものではなくて、どんどん心が澱んでいくような感覚になりました。

知らず知らずにしてしまう癖は、自分自身の努力では改善しにくい。けれど、北海道にはその癖をしてしまう状況がない。人がいないから。

比較しない、という事がこんなにも心を軽くするとは思っていませんでした。

ただ同時に、この状況があるからこそ癖が発動しないのかも、という不安にも襲われました。人の多いところに戻ったら、また同じように周りと自分を比較して、あの嫌な感覚が戻ってきてしまうのではないか。

だから、しばらく北海道にいようと思いました。1年とか、もっと。そうしたら逆に、人と自分を比較しない癖がつくのではないか、と。

まあ、現実は半年も経たずに帰ってきちゃうんですけど。

 

さあ、帰ってきて、また人の目を気にするようになったのか、というと今のところまだ大丈夫です。それは北海道の余韻を引きずっている、というのもあるかもしれませんが、北海道に行ったことでわかった事があったからだと思っています。

 

人口が少ない、という事は、当然その人口に見合った分の消費施設しかありません。レジャーはパチンコかカラオケ、カフェは地元のおじさんおばさんがやっている喫茶店かドトール、ファストフードはマックかケンタ、服はユニクロしまむらか何かよくわからないジーンズ屋さん。

単身渡ったので友達もいません。一緒に働いていた子たちと仲良くはなりますが、基本休みは被りません。休みの日は一人でドライブに行くか、銭湯に行くか、録画したドラマを見るか、溜まった洗濯物をするか。誰かと会話することは、ほぼありません。

私はどうやらあまり物欲がないので、お店の選択肢が少ないことはあまり苦ではありませんでした。限られた中でお気に入りを見つけてそこに通う生活が、むしろ好きでした。店員さんに覚えてもらってちょっと会話したり、楽しかったです。

けれど、友達がいない、というのは滞在が長くなるにつれ、どんどん心を憂鬱にさせる事象でした。また、この歳になって恥ずかしいですが、親が近くにいない、という状況も。

私は社会人1年目で念願の一人暮らしを始め、一旦実家に戻り、社会人5年目くらいでもう一度家を出ました。何度か引っ越しの経験もありましたが、北海道に行った時が初めて、実家に帰ろうと思っても簡単には帰れない距離でした。当然、友達関係も然りです。

お互いに忙しくて近くにいても会えないのと、物理的に会えない距離にいるという事が、こんなにも意味が異なるのか、と痛感しました。絶対会えないのに、会いたい、なんて我儘じゃないのか、会う予定もないのに連絡をとってもいいのか。

まあ、そもそも私が使っていた部屋の電波が悪く、時にはまさかの圏外になっちゃってたんで連絡自体、物理的に取りにくかったんですけど。

 

3カ月を過ぎたあたりから「さみしい」と思うことが増えました。牧場の人たちはみんな優しかったです。シェアハウスでの生活もそれなりに楽しかったです。

けれど、両親や友達に一瞬でも会えたら、もっと楽しいことを私は知っているなあ。それくらい、今までの生活が幸せで恵まれていたんだなあ、と気付きました。

親のありがたみ、三十路にして気付く。

そして、同時に大事にしたいな、と思いました。

その為には、自分自身の余裕を作ることが何よりの条件だと思いました。関係が近くなればなるほど、「素の自分」を見せる時間が多くなる。その場しのぎの良い顔では到底しのげない。「素の自分」で相手を思いやる気持ちを持つためには、相当な余裕がないと難しい。時間的な余裕も、精神的な余裕も。

そうしたら無駄な時間を削っていくしかない。その一つが「自分と他人を比べて落ち込んでいる時間と心」でした。

いいじゃん、別に誰かより多少劣っていようが優れていようが、それよりも大事にしたい人の事をもう少し本気で考えようぜ、と。

頭で考えてこうしよう、というよりは、心が納得した、というか覚悟したのだと思います。

それからあまり人の目が気にならなくなりました。同じ年齢くらいの女性が子どもの手を引いて歩いているのを、以前は少し引け目を感じるというか、何故私は向こう側ではないんだろう、と思っていたのが、今では素晴らしく幸せで素敵な光景だな、と思えます。晴れの日なんか最高ですよ、まじで。いや、お母さんの大変さとかわからないけど、勝手に幸せ分けてもらってます。

 

今回の活動で、というかまあ形式上はずっと転職の際のテーマにしていた「余裕のある生活」。その本質を、何にもない状態にすることでやっと理解できたのかな、と思います。また忘れてしまうかもしれないけど、こうして記して、いつか見返して思い出すことはできそうです。

人生において本当に大事にしたいことが見つかると自然と無駄なものはやらなくなっていって、結果人の目が気にならなくなったよっていうとっても良い教科書的なお話でした。

 

≪余談≫

「大事にする」って言葉にするのは簡単だけど、実践するのって結構難しいんですよね。書きながら、いや自分、全然できてないやん、とか思うけど。けど少しずつ、努力していこうと思ってます。

人の目や世間体を気にするようになったのはいつからだろうか ‐後編‐

こんばんは。さきこです。

さて、今回は前回からの続きです。テーマは二つ。

 

・人の目を気にしなくなったのは何故なのか

・「戸惑い」という言葉について

 

順番は前後しますが、まず「戸惑い」について考えてみようと思います。

我が家にあった小学校の頃の国語辞典によると、

 

とまどい:とまどうこと。

とまどう:まごつく。どうしたらよいのかわからなくなる。

(株式会社 日本標準「改訂新版 国語学習辞典」より)

 

ちなみに、「まごつく」は「どうしてよいかわからなくてこまる。」という意味です。

次に、何か問題に直面した時の、解決までの道のりをわかりやすくビジュアル化してみます。

 

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私の場合、この「戸惑い」→「考える」の時間がとても速いようです。

「とまどっ、はい、考えよー!悩もー!」みたいな、若干食い気味な感じ。何故かというと、「戸惑う」というよりかは、「戸惑うような出来事があること」が悪いこと、恥ずかしいことだと思っていたからです。

 

前編で、私は社会性の発達が人よりも少し遅かったようだ、と書きました。社会性の発達が遅い、ということは、社会の中で当然とされるようなルールや知識、流行に対してのアンテナが低い、という事になります。

友達はみんな当然知っているのに、知らない、恥ずかしい。結果、「知ったかぶり」をよくしていた気がします。もちろん、ずっとそのままだと嫌われるし、自分に引け目も感じるので、改善すべくかなり努力したと思います。

その為には、問題発生から解決までの時間を早くする必要がありました。戸惑っている暇なんてなかったのです。

 

そして、そのまま成長しました。同じようにスピード第一!で対応を続けていました。関わる人が増えるにつれ、解決法が多様であることを知りました。自分とは異なる価値観にも触れました。自分の出した答えより素敵な答えがあることも知りました。羨ましい、とか、悔しい、とか、そういった気持ちからもう一度考え直そうとしては悩む、という無限ループに落ち、結局その問題を見ないようにすることもありました。

学生の内はまだ、それでよかった。時間がたくさんあったし、なにより解決しなくて良いことも多かった。合わない人とは距離を置けばいいし、異なる意見に耳を傾けなくてもそれなりに生きていけます。どんどん生きにくくはなるけれど、自分を変えるまでの必要性はなかった。

けれど、社会に出るとそうはいかなくなりました。合わない人とも仕事をする状況にはなるし、無限ループに浸っていられるだけの十分な時間はなくなる。けれど自分は変えたくないから、その場で取り繕ったり、睡眠時間やらを削ったり。結果、プツンとスイッチが切れてしまう、そんなサイクルを続けていました。で、もう、それはいい加減しんどいな、と自分の見直しをしました。

 

そもそも、答えを考え直す余地のある問題には、幾通りもの答えがあるのだと思います。正解など無いのかも知れません。だからこそ、考え込んだり悩んだりするのですが。

ただ、その時のベストアンサーは導き出せると思うのです。その時に「戸惑う」をしっかりと経ていないと、いや、でも、と再び、考える&悩む無限ループに取り込まれてしまいます。

何故なら、その問題の何に困っているのか、自分自身が理解していないからです。

 

「戸惑う」は前述した通り、どうしたらよいのかわからなくなる「状況」です。一方、「悩む」「考える」は以下のように「感情」に近いものだと考えます。

 

なやむ:①心配して苦しむ。②病気などで苦しむ

かんがえる:①頭の中で、あることについていろいろと思いをめぐらす。②あることについて、心を決める。③いろいろと工夫して思いつく。

(株式会社 日本標準「改訂新版 国語学習辞典」より)

 

「状況」は、物事のありさま、様子を説明する言葉です。これは客観的に把握することが可能です。一方、「感情」は、物事によって引き起こされるものです。主観性が強く、多様な広がりがあり、客観的に俯瞰することがなかなか難しい。

ここで考えます。

「戸惑う=状況の把握」と「考える、悩む=感情の把握」、どちらの方が答えに辿り着きやすそうだろうか。

私は、感情の海の中でぐるぐると悩むより、複雑そうに見えても状況を細分化していって、解決に結びつける方が簡単そうだし、早そうだな、と思いました。

今までの自分のやり方(戸惑いはすっ飛ばしてとりあえず考える!)をやめよう、と。

そもそも「戸惑い」が恥ずかしいと感じていたのは、戸惑う=停滞すると思っていた節があって。けど、結果的に、問題→解決までスピーディに行えるのなら私は構わないようなのです。

最終的には考えたり、悩むのですが、多面性のある問題そのものに戦いを挑むより、その問題のどこに戸惑ったのか、を明確にしてからの方が勝てそう。だったら、しっかり戸惑おうじゃないか!という思考に今なっています。

そして、戸惑うことが出てくるたびに、「私まだこんなことで戸惑ってんのか、笑える~、ぷぷぷぷ~」と思いたいです。

そうは思っても、なかなか実行するのは難しいとは思いますが。少しずつ、やっていきたいです。

 

さて、なんだか、長くなってしまったので、「人の目を気にしなくなったのは何故なのか」はまた次回にします。とりあえず、今日はここまで。

 

≪余談≫

今回のお話、もっと具体例とか入れてわかりやすく書ける予定だったのですが、例を入れたら長くなるし、とか試行錯誤しているうちに疲れちゃいまして。で、えらい抽象的になっちゃいました…そして、論理破綻している気もしないでもない。。

ただハローさんから「それって戸惑ったんじゃない?」って言われたときに、「戸惑うって、なんて素敵な言葉!」と思った事を書き留めたかったのですが。何となくわかった気がしたものを言葉にするって難しいですねえ。

人の目や世間体を気にするようになったのはいつからだろうか ‐前編‐

こんばんは。さきこです。

お散歩をしていたら、商店街でお花を拾いました。おそらく開店祝いか何かなのだと思います。オアシスに刺さった切り花が店前に「ご自由にどうぞ」と置かれていました。ので、わーい、と、遠慮なくいただいてきちゃいました。

 

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さて、ハローさん(ハローワークのキャリアカウンセラーの方)と進めているワーク。「人のために何かして、喜ばれたことは?」というテーマについて話していた時の事です。

※ワークの詳細を思い出したい方はこちら

vegetaboo.hatenablog.com

 

仕事やプライベートを思い返して、このテーマに当てはまる出来事を出してくと、以下のような事がわかりました。

 

・私は、相手の困りごとを聞き出し、問題解決に繋げることができる

・私は、周囲の状況を観察し、相手が求める行動がとれる

 

観察力があるのね、というハローさんの誉め言葉に、けど人の目や世間体を気にしすぎることもありましたよ、と私は答えました。答えながら、はて、それはいつからだったんだろう、と不思議に思い、ハローさんを遡ってみることにしました。

幼少期の私は、あまり記憶がないのですが、おそらく「箱入り娘」という言葉が当てはまる内面の持ち主だったと思います。内面、ね、ここ大事です、見た目がドラマや漫画とかに出てくる「箱入り娘」のようだったわけじゃないです。

 

≪幼少期のさきこ≫

・一人っ子:父は仕事で留守にすることが多かったが、母は基本的に家におり、一緒にいてくれた。

・初孫:とても可愛がられた。また2歳の時に、母の入院で1ヶ月ほど祖父母と暮らした。祖父母は商店街で商売をしており、商店街の皆さんにも可愛がってもらった。

・一人遊びが好き:外で走り回って友達と遊ぶよりも、家で一人、もしくは母と遊んでいたイメージが強い。

 

幼いころの私は、親や祖父母に溺愛され、商店街の皆さんにも可愛がられ、大人の中で守られて天真爛漫に生きていました。

そして、転機が来ます。きっかけは小学校4年生の時の転校です。

それまで私は、幼稚園に行っても、小学校に行っても、基本的には「箱入り娘」気質のままでした。ただ、転校によってその気質は大きく変化します。それくらい、転校による環境の変化はとても大きいものでした。その差を、当時私の周りにいた子どもたちの特徴で見比べてみます。あくまで私目線です。

 

≪転校前の小学校≫

子どもたちの気質:おとなしい、自分の世界を持っている。

遊び方:屋内でおもちゃを使って遊ぶ。一緒に遊ぶ、というより、隣で遊んでいて時々交わる、というイメージ。

 

≪転校後の小学校≫

子どもたちの気質:元気いっぱい、とにかく、元気いっぱい。

遊び方:屋外で身体を使って遊ぶ。ドッジボール、鬼ごっこなど、みんなで一緒に遊ぶイメージ。

 

もう、ね、180℃違うわけですよ。普通に考えたら馴染めるはずない、下手したらひきこもるんじゃないかって感じですが、この元気いっぱいな子たち、元気だけじゃなくて好奇心旺盛で、そして優しかったんです。

転校当初、箱入り娘・さきこは、どうしたらいいのか分からず、あまり喋っていなかったように思います。いつ頃だったのか、もう全然覚えていないのですが、今でも仲の良い友達が遊ぼうと誘ってくれました。ただ、どういう流れだったのか良くわからないのですが、せっかく誘ってもらったのに途中で癇癪を起して「もう帰る!」と帰宅した記憶が、ある、よ。最悪やん。

ただ、そんな事があっても、また誘ってくれたんですよね。優しい、というか、屈託がないというか、バカというか。そういう子たちと一緒にいるうちに、箱入り娘は箱から出て、いろんな経験をするようになりました。

 

この「箱から出る事」、一般的に「社会性の発達」と言うらしいです。…うん、らしいですよ、はい。というのも、ハローさんとこの話をするまで「社会性」なんて、単語すら意識したことなかったので。ああ、そう言われると私あまり社会性のない子だったかも!とこの時発見した次第です。

Google先生に聞いてみると、社会性はいろいろな解釈ができるようですが、家族以外の他者と関りを持ち始めるのはどうやら3歳ごろから発達していくようです。本格的に「協調性」「応用力」「適応力」などを身に付け始めるのは5歳ごろから。付け焼刃の情報ですが、仮に5歳を「他者と協力して何かをする力が芽生える」年齢とするなら、私はその倍かかっています。

 

ただ、私はとても模倣するのが得意な子でした。元々の性質もあるのかもしれませんが、幼少期に1ヶ月祖父母のところに預けられた経験が影響しているようにも思います。

祖父母は商店街で衣料品店を営んでいました。必然的に日中は二人と一緒に店番をします。おじいちゃんが「いらっしゃいませ」と言えば、真似して言ってみる、ような事はきっと日常的にしていたのでしょう。

2歳児が、いらっしゃいませ。褒められないわけがない。可愛いと言われないわけがない。

そうして、真似すること=褒められること=良いこと、というロジックが私の中にできたのだと思います。

 

元気っ子たちの中で、私はどんどん真似をしました。時には失敗することもあったとは思いますが、基本的に元気で、屈託がなくて、素直な子たちが多かったので、悪い方向に進むことはありませんでした。

私は5歳からの5年間を取り戻すべく、周りに目を配り、行動を模倣し、メキメキと社会性を身に付けていきました。いや、意識はしていないですけどね。きっとそうだったのだと思います。お蔭で友達もでき、大勢の中で遊ぶ楽しさも知り、楽しい学校生活を送ることができました。

 

ただ、急に社会性へのスイッチをオンにした影響か、今思うと、ここでも私は過剰適応をしていたのだと思います。人の目や世間体を気にしすぎるようになったのです。それも、ここ最近まで、ずっと。

けれど、今はそこまで気にしていません。さらに、ハローさんとの会話で出てきた言葉のお蔭で、この先また過剰反応して、悩み過ぎたり考え込んでマイナス方向に落ち込みそうになっても、一旦フラットに戻して、そこから対応することができそうな気がしています。

その言葉は「戸惑い」です。

気にしなくなった要因、「戸惑い」で何故フラットに戻るのか、次回まとめていきます。

 

≪余談≫

ちきりんサンの新刊「自分の時間を取り戻そう」読書中。読みやすいし、視野をぐーんと広げてくれるのでこのシリーズ好きです。考え方とか文章の書き方とかしばらくめっちゃ影響受けると思います。

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「ぷぷぷ」の魔法

こんばんは。さきこです。

久しぶりに風邪らしい風邪をひきました。のどの痛み⇒鼻水、たんの絡み⇒発熱⇒予定全キャン⇒1日中寝る⇒寝すぎて夜中に目が覚めて寝れない(イマココ)です。

 

さて、ハローさん(ハローワークのキャリアカウンセラーの方)とのワークでまず、ひたすら言われたのが「余裕を持つことの大切さ」でした。パソコンだって仮想メモリーがないと適切な処理ができないように、人間だって空き容量がないと最適なパフォーマンスは出来ない。

けれど、この「余裕を持つ大切さ」には、私自身ももうずっと前から気付いていました。数年前の新年の抱負は「頑張らないを頑張る」だったり、余裕を持つために転職をしていた節もあります。

しかし、結果的に失敗している。そもそも「余裕」とは何なのか。

 

≪「余裕」とは?≫

・自分の時間の中に空きスペースを作ること(時間的余裕)

・自分の頭の中に空きスペースを作ること(思考的余裕)

・自分の心の中に空きスペースを作ること(精神的余裕)

 

整理してみると、今までの私の余裕作りは、「時間」だけに特化していた気がします。具体的な対策としては、定時に上がる、土日はしっかり休む、などの目標を掲げる事です。

確かに「時間」の確保はとても大事です。しかし、「時間を作る=環境を変える」ことだけをしても、「時間の使い方を改める=自分を変える」ことをしなければ結果は変わらないと思うのです。

(過去ログ「誰かに話すって大事」より:何かを変えたいとき、「環境」「相手」「自分」のどれかを変えると結果が変わる。)

vegetaboo.hatenablog.com

 

だって、確保した時間にも結局私は予定を詰め込んでいたから。一番ひどい時には1日に5件の予定を入れ、分刻みのスケジューリング、休日さえも「こなす」日々。もちろん、予定を立てるのが好きな方もいて、それを「楽しめる」のであれば良いのだと思います。けれど、「こなす」と考えていた当時の私の時間の使い方は、振り返ってもあまりよろしくはなかったと思う。おかげで得たものもたくさんありますが、今後は変えていきたいな、と。

 

では、どうやって頭と心に余裕を作るのか。ここからは過去の振り返り(事実)ではなく、これからの挑戦(仮説)なので、机上の空論感もあるかもしれませんがご了承ください。

 

ひとつ、今後やってみよう、と思っている方法が「りゅうちぇる君方式」です。

まずは彼のTwitterをご覧ください。 

 

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私は特に彼のファンではないので、出演情報とかを追っているわけではないのですが、やたら派手な投稿が好きでフォローしています。で、赤線で引いたところ、文脈とか割と無視で、彼の投稿には「ぷぷぷぷぷ(笑い声)」が良く入っています。ここを真似しようかな、と。

思考や精神的な余裕を作る=いっぱいいっぱいな状況に少しでも隙を作る、と置き換えた場合、隙は「ささやかな笑い=ぷぷっと思う事」で作れるのではないかな、と。で、じゃあ、その笑いは何で作るのって言ったら、もう、その状況を笑うのが一番手っ取り早いのではないか、と。

「うわー、また仕事ばっかりな毎日になってるよ、ぷぷぷぷぷ~」「あー、全然資料作成終わってないじゃん、ぷぷぷぷぷ~」的な、ね。いや、ほんとくだらないですよ。書きながら、何書いてんだろ自分…って思ってますけど、思いながらにやにやしているので、これはもう、隙作りに成功しているのではないでしょうか。無理矢理?

一瞬でも隙ができると、集中力が切れます。集中力が切れると、一か所に焦点が合わさっていた思考や感情が弛緩して、少しひいた状態になると思うのです。少しでも自分を客観的に見れる状態を作れれば、切羽詰まった状態でも冷静な判断がしやすくなるのではないでしょうか。少なくとも、一点集中して、周りが見えなくなっている状態よりは数段良いと私は思います。

じゃあ、その切羽詰まった状態の時に「ぷぷぷぷぷ~」と本当に思えるのかよって話ですがね。こればっかりはその時にならないとわからないので、時が来たら使う秘儀として心に留めておこうかと。前述した3つの余裕を全ていつも満たせることがベストですが、そうできない状況もあると思うので、どれかだけに特化せず、バランスよくいきたいものです。

 

≪余談≫

もちろん、日常生活において「何かに集中すること」は大事な事です。けれど、集中しっぱなしは、やはり正常な状態ではないと思う。だからこそ、瞑想(思考を無にする)状態になれるようなヨガが流行っていたりもするのではないでしょうか。

あと、同じ効用がデッサン、というか、絵を描くことにもあると私は思っています。デッサンを習っていた時に先生からよく言われた、「“部分を見る仕事”と“全体を見る仕事”のバランス」。部分だけを見ていても、全体を見ないと絵として完成しないのです。

ヨガやデッサンに限らず、一点に集中している状態から、視点を変えられるようなものを日常に取り込むのも良いのかもしれませんね。

急がば回れ

こんばんは。さきこです。

降りましたね、雪。交通ダイヤは大丈夫でしたか?シャーベット状になった路上で滑りませんでしたか?みなさん、お疲れさまでした。

ちなみに私は何の予定もなかったので、録画したドラマやらを見て終わる1日でした。「逃げ恥」でガッキーと星野源のやり取りに一人悶えていました。なんか、すみません。

 

さて、前回は参加したイベントでの発見をまとめましたが、今回からはまた、ハローさん(ハローワークのキャリアカウンセラーの方)とのやり取りに話を戻します。

いろいろな進め方の中で、ハローさんが私に選んでくれたのは、「しっかりと自分の整理をしてから進める」方法でした。その為、現段階では転職の具体的な話ではなく、かなり時間をかけながら「自分は仕事に何を求めるのか」を一緒に掘り下げていっています。履歴書、職務経歴書の読み込みもその一環。なので、書き方の細かい修正指導はまだ受けていません。

ただ、何度か通う中で、そういうカウンセリング的面談が続くと、正直、そんなにのんびりやってて大丈夫なのかな…と不安になりまして。前回、その旨を聞いてみたんです。

 

さきこ:こんなにゆっくりやってて大丈夫ですか、ね…?

ハローさん:うーん、でも、ここをしっかりしておかないと、今までの転職と同じ結果になっちゃうと思いますよ。

さきこ:はあ。

ハローさん:巻きでやりたかったら巻きますけど。まあ、どのみち3カ月しかない(私が受けているハローワークの個人支援は最長で3カ月まで)のでその範囲で終わらせないとね。

さきこ:あ!あー、そうですよね。じゃあ、このペースでいいです。

 

ハローさんは仕事として私のカウンセリングをやってくれているわけで、当然、仕事のデッドラインから計算してペース配分していたのです。どこかでハローさんを見くびっていた自分を恥じ、同時に、頼もしいなあ、と安心感を覚えました。そんなところも、ハローさんの好きなところ。なので、今は焦らず、ハローさんが作る流れの中で好きなだけ自分の理解を深めることにしました。

 

履歴書、職務経歴書の次に出された宿題は、「あなたの持っている『宝物』を探してみましょう」というワークでした。

A3の紙に、4つの手順通りに進めていくとスムーズに自己PRが書けるようになっています。

 

≪ワーク「宝物さがし」手順≫

①7つのテーマに当てはまる、過去の出来事を書き出す。

 ・ちょっとむずかしいことにチャレンジした経験は?

 ・人のために何かして、喜ばれたことは?

 ・人と話したり教えたりするのは好き?

 ・新しいことを考えたり、実行することは好き?

 ・計画的に物事を進めるのが好き?

 ・社会のルールやマナーで気を付けていたことはあった?

 ・その他

②出来事からキーワードを見つける。(協調性、リーダーシップ、など)

③書き出したキーワードから、自分がアピールしたいものを書き出す。

④アピールしたいキーワードに、実際の出来事を肉付けして自己PRを書いてみる。

 

③④は、受けたい会社によって変わってくるので、とりあえず①②だけを行い、面談に臨みました。

ちなみに、いろいろ語りたがりな私はA3用紙には収まりそうもなかったので、別ノートにポストイットで整理してみました。こんな感じ。

 

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学生時代は「青」、仕事関連は「黄色」、プライベートは「緑」で出来事を書き出し、似たような内容でまとめて、キーワード化(というか文章になってますが)していきました。そして、仕事での出来事がポストイットの数を超え、オレンジになり、ピンクになり、結果カラフルで見にくいまとめになるという。まあ、見た目楽しそうだからいっかな。

 

このワークに関する面談では、私がハローさんにプレゼンをする、という形で進んでいます。文字にした考えを、言葉にして相手に伝える。それだけ新しい発見があるし、相手の質問や違った解釈の仕方に触れることでまた、いろいろと広がっていく。

ワークを通じて気付いたことや新しく考えなくちゃな、と思ったことがいろいろとあったので、次回から何回かに分けてまとめていきたいと思います。

 

≪余談≫

ちょっと前に、逃げ恥の恋ダンス起点にyoutubeザッピングをしていたら、星野源バナナマンの日村さんが仲良いことを知り、「SUN」という楽曲は実は曲ができる1年前に星野源が日村さんに作ったバースデーソングがベースになっていることを知り、だからタイトルも日村さんの「日」から取ったという事を知り、恋のPV観たいなとyoutubeにアクセスしたら音が出ず、どうやらwindows10の更新後このPCのオーディオ出力がおかしくなっているらしいことを知り、Google先生に聞いてもちょっと良くわからなくて無音のままPV見てる、今、です。。

「憧れ」と「望み」

こんばんは。さきこです。

寒いですね、急に。明日、本当に関東でも雪、降るのかなあ。

 

さて、少し脱線になりますが、先週末参加した2つのイベントでひらめきのような発見があったのでまとめてみようと思います。まずは、それぞれのイベントの概要を記載します。

 

≪イベント①≫

内容:「美」に関するイベント

参加者人数:30人前後

参加者傾向:「美」を切り口として個人経営されている方、アグレッシブに活動されている方

イベントスタイル:立食パーティ

 

≪イベント②≫

内容:「人生」について語り合う会

参加者人数:4人(+司会者1名)

参加者傾向:自分の生き方について悩んでいる方、人間関係が得意でなくけれどそれを少しずつ改善していこうと思っている方

イベントスタイル:一人ずつ自分の人生について語る方式。意見交換をするのではなく、ただ話を聞きあう

 

どちらのイベントも、初めましての方ばかりの会でした。それぞれで素敵な出会いがあり、とても有意義な時間が過ごせたな、と思います。ただ、それぞれで感じたことは全く違って、その気付きがタイトルに繋がっています。

まず、イベント①で感じたことは、本当にみなさん生き生きされていて、格好良いなと思いました。自分なりの信念みたいなものを強く持って、それをお仕事にしたり、そうでなくても何かしらの活動につなげていて素敵だな、と感じました。ただ、その方たちと対等にお話がしたい!という気持ちから、少し背伸びをした、というか、こうありたい自分を作って接していた節があり、帰り道に少し疲れを感じました。けれど、初対面の方々に囲まれれば自然と疲れるものだし、心地よい疲労感でもあったなあ、と思います。

次に、イベント②です。こちらは人数も少なく、またテーマも「人生」なので、それぞれの方の人となりを深く理解したり、自分自身の更なる気付きがある会でした。境遇は違えど、根本的な悩みが一緒だったり、直接解決に繋がらなくても、思いを共有できるってあたたかい気持ちになるんだなあ、と感じました。この会では、そう意識したのもありますが、自分ありのままでいられました。そして帰り道は何とも言えない充足感がありました。

 

この立て続けの異なるイベントを体験したことで、はっと気付いたのです。

私の中で、「憧れ」と「望み」は全く違うものなのかもしれない、と。

この二つの捉え方はきっと人それぞれだと思います。「憧れ」への過程が「望み」の場合もあるし、人によっては同じものなのかもしれない。わかりやすくビジュアルで表してみます。 

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私の場合、「憧れ」と「望み」はそれぞれ別の役割を担っているように思います。

 

≪「憧れ」の役割≫

・自分のキャパシティを広げてくれるもの

・新しい発見を与えてくれる場所

・成長を促す要素

・上に伸びていく、引っ張られる力

 

≪「望み」の役割≫

・自分自身を満たしてくれるもの

・新しい発見を自ら探す場所

・成長を感じる要素

・土台を構築する、地に足をつけるような力

 

仕事において、私は今まで「憧れ」に近いものを選んできたように思います。20代という年代においても、それは良い選択だったな、と感じています。

けれど今、これからの事を考えた時、「望み」に近い仕事がしたいな、と。広げたキャパシティを空虚なものにせず、しっかりと中身を満たしていきたいと感じています。

ただ、どちらも私にとって不可欠な要素です。一方を選択する、というよりは、比重を変える感じ。

 

今の転職活動の結果、思った通りの結果が得られなくても、この事はちゃんと覚えておきたい、そんな気付きができた週末でした。イベントに誘ってくださった方、その場でお話させていただいた方、本当にありがとうございました!

 

≪余談≫

この世界の片隅に」を観てきました。余韻がありすぎて、エンドロールが終わった瞬間映画館を早く出たい!と初めて思った作品でした。だって、もう、ずっと泣けちゃうもの。

じんわりとあたたかくて、妙な例えかもしれませんが、お出汁みたいな、染み渡る映画でした。すずさん(主人公)のような、普通の人の、普通ではない環境下での、自然な生活の延長線上に私は生きているんだなあ。

…お出汁って書いたらおでんが食べたくなりました。もうすっかり冬なんですかねえ。

本人が、そう見せたいと決めたその世界こそが、私と相手の作る嘘のない世界

こんばんは。さきこです。

引用タイトル第2弾。(これ、どこまでOKなんだろう。アウトな時はご指摘ください!)

ハチ公の最後の恋人吉本ばなな)」の一節から引用しました。

 

 本当についた嘘よりももっと悪いことは、自分の考えで人を動かそうとすることだ。たとえよかれと思っていたって、そしてどんなに軽くても重くても、罪は同じだ。他の人の考えがいつの間にか自分のつごうがいいように変わるように、圧力をかけるなんて恐ろしいことだ。

 本人が、そう見せたいと決めたその世界こそが、私とハチの作る嘘のない世界。ハチにはインドのお坊さんの衣装、私には金の冠が、夜は終わらず、なによりも美しいアメジストの夜明けがやってくる、この部屋の世界。(「ハチ公の最後の恋人吉本ばなな)」より)

 

ここだけ読んでも、なんのこっちゃ、って感じでしょうが、好きなので前後もご紹介。特別有名ではないけれど、何故か好きで何度も繰り返し読んでいます。音読しちゃうくらい好き。あ、けど、この作品に限らず吉本ばななさんの文章は音読していて気持ちいいですよ。おすすめ。

 

さて、「本人が、そう見せたいと決めた世界」とまで強く思わなくても、日常の中で、接する人によって対応が変わることは良くあるお話です。いい、悪いではなく、恋人に見せる顔と友達に見せる顔が違うように、全ての人に開けっ広げに同じ対応の人の方が珍しいのではないでしょうか。

例えば、身近な人に何かの相談をするとき、その内容が自分にとって重要であればあるほど、より信頼している人になると思います。それは、一概には言えないけれど、付き合いの長い人になると思っていて。で、付き合いが長いと、いろいろと思い悩んでいる時期や、あまり積極的に話したくない過去も近くで見ていたりするから、お互いに「わかるよね」という暗黙の了解というか、甘えみたいなものがあると思うのです。

けど、たとえ近くで見ていたって、事象はわかっても、その時の本人の気持ちはわからない。そして、事象もあくまで「周囲からの認知」です。だけど、なまじ知っているから「わかった風」で話を聞き、アドバイスをくれます。これも、いいとか悪いとかじゃなくて、自然にそうなっちゃうよね、というお話。

何が言いたいかというと、身近になればなるほど、「その人から見た私バイアス」がより強くかかったアドバイスになるのではなないかな、という事。さらに、思ってくれるからこそ熱が入り「そんなんだからお前はダメなんだ」と。けれど、じゃあその人は私が仕事をしている姿を見たことがあるんだっけ?恋愛中の私のリアルなところを知っているんだっけ?と冷静に振り返れれば良いのですが、私の場合は「ああ、そうだよなあ」とただ凹む、もしくは「そんなことないもん!ぷん!もういい」と拗ねる傾向にある気がします。

なので、ハローさん(ハローワークのキャリアカウンセラーの方、の略称)のところに通っているのです。はあ、長い説明だった。

 

ハローさんと話していて、今のところ感じるメリットは以下のような感じです。

 

≪ハローさんに感じるメリット≫

・過大でも過少でもなく、自分のキャリアの等身大に近い評価が見える

・自分でも気付かなかった自分の傾向がわかる

・自分が今まで使ってこなかった素敵な表現に出会える

 

例えば、企画会社にいた時、私はマーケティングの基礎知識がないのに仕事をしている自分が恥ずかしかったし、許せなかった時期がありました。在職中も、辞めてからもどこかで引っかかっていた。勉強もしていない人間が偉そうなことを言っていいのだろうか、と。勉強していようがいまいが、私が作った資料は仕事としてお金をいただける価値があったのも事実です。けれど「勉強していない」ことに私はこだわっていました。

その事をハローさんに話した時、彼女はこう言いました。「マーケティング知識がないってことは、理論で固められたものでなく、先入観を持たない見方ができたってことですよね。それって勉強した人にはできない事なのでは」と。慰める感じもなく、ただ事実として言っている、という口調で。

「勉強していない」自分を責めていた私にとって、すごくうれしい言葉でした。そして同時に、そういう見方もできるよなあ、と過去の自分をもっと引いた視点から見れた瞬間でもありました。自分のこととなると、とかく視野が狭くなりがちなので気を付けよう、と実感しました。

 

また、今まで私は良く「みんなは普通にできるのに、当たり前のことをどうして自分は出来ないんだろう」と思っていました。なので、それが段々と出来るようになってきた時も「私もやっと普通に、当たり前なことを出来るようになってきた」と感じていました。ただ、この「普通」「当たり前」に近づくって、それまでの自分を「普通以下」「当たり前のこともできない未熟者」と言っているような、少し嫌だけど事実だし仕方ないか、という感情を抱いていました。

ハローさんと話している時も、同じような会話が出てきました。その時に言ってくれたのが、「さきこさんも、自然に出来るようになったんだね。よかったね」でした。

些細かもしれないけど、私にとってすごく発見だったのです。「普通、当たり前」⇒「自然に」と言い換えるだけで、プラス思考の言葉になるというか。うまく言えないのですが、

 

・普通、当たり前:マイナスからやっと0地点に立てた(相対評価

・自然に:0の状態から少しプラスに進んだ(絶対評価

 

という感じ。言葉の違いで、こんなに心の持ちようって変わるんだ!というくらい私にとっては発見でした。そして言葉が変わると、自然に考え方も変わってくる不思議。私が単純すぎるのか?

 

自分が普段接している人、特に仲が良い人というのは、居心地の良い会話ができるような人、つまり同じような言葉を使う人が多くなる気がします。ハローさんは、私の中でそういうカテゴリーとは違う方なので、自分が今まであまり接してこなかった言葉に触れる良い機会になっています。

そして、何よりハローさんはキャリアカウンセラーのプロなので。私以外にもたくさんの求職者を見て、声を掛けてきた方なので、その方面の知識や語彙力が違います。さすがです。

 

そういう、いろんなメリットを通して、なんといっても「肯定的に転職活動に打ち込める」事が何よりもハローさんと進めて良かったな、と感じる瞬間です。今日も面談だったのですが、終わった後とても肯定的な気持ちになり、天気も良かったし、いろいろ思案しながら気付いたら2時間くらいご機嫌に歩いていました。

いやいや、とはいえ、あなたもう30歳でしょ、肯定的意見ばかりじゃなく否定的意見にも耳を傾けないとだめよ、という声も聞こえてきそうですが。肯定的に進めても、否定的に進めても、進む速度ってそんなに極端には変わらないと思うのです。

だったらなるべく肯定的に捉えて、楽しくご機嫌に、調子には乗らず着実に、歩いていきたいなあって今は自然に、そう思います。

 

≪余談≫

冒頭で吉本ばななさんの事を書いたら、案の定読みたくなってお風呂で音読してしまいました。のぼせた…。