アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

さん

こんばんは、さきこです。

今日、学生の頃からのお友達と久しぶりにランチをしてきました。
意外に友達に対して自分から「会いたい!」って言うことが少ないわたしの、数少ない「会いたい!」って言う人たちです。
(会いたい!って言わなくても会いたい気持ちはあるのよ。誘って。笑)

どうして会いたいかって、もうね、パワフルなんですよ。ずっとしゃべってる。ずっと笑ってる。
彼女たちは結婚していて子どももいて、ライフスタイルが違うし、わたしが想像つかないようなしんどさやさみしさもあるんだと思う。
でも、そういうの全部笑って吹き飛ばすようなパワーがある。さらっとわたしの話を聞いてくれて背中を押してくれたりする。超男前。
だから時々無性に会いたくなる。
こういう縁がゆるゆると繋がっているって本当に幸せでありがたいことだなあって思います。

で、タイトルなのですが、今日のランチ会も3人。昨日打ち合わせがあったのですが、それも3人。一昨日参加したワークショップでも、3人でグループを組んで行いました。
「3(さん)」がここ数日多いなあって。

2、でもなく、4、でもなく、3。
その理由をワークショップの時に少し教えてもらった気がしました。

そのワークショップは「プレイバックシアター」という即興劇を使ってコミュニケーションしよう、というもの。
元演劇部のわたしにとって「即興劇」というと、その場でクリエイリョンしていく、エンターテイメント要素の強いものかと思っていました。
けれど、実際は違って。
遊びを通して自分と他者を知って、認めて、共感してゆっくりとアイスブレイクをした後に、自分と向き合う作業を他者の力を借りて、無理せず、けどひとりでやるよりもより深くしていける、そんなものだったなあ、と。
刺激的な楽しい!というものではなく、ほんのりあったかい癒しなワークショップでした。

特にわたしの心が動いたのは、自分の「大切なもの」を相手に伝えて、その相手が「大切なもの」になりきって、自分に語りかけてくれる、というワーク。
この時、語る人、話を聞いて「大切なもの」役をする人、見守る人、の3つの役割に分かれて行います。
「大切なもの」は、本とかスマホとか物質なので、普通に考えたら恥ずかしくてできないと思うんですよね。
だって、「はい、じゃああなたは今からスマホです。スマホになりきってしゃべってください!」とか言われても、いやいや〜ってなりません?
でも、そのスマホは、語る人にとってはとっても大切なものなわけです。
どうして大切なのかって、聞いて演じる人に真剣に語るんです。
その真剣さを受け取るとね、自然と恥ずかしさとかなくスマホ役が演じれちゃうんです。
真剣な気持ちに、真剣に返そうって思う。
わたしが素直すぎるってのもあるのかもしれませんが。
わたしはこのワークの時、もうずっと泣きそうで。語り役の時も、聞き役の時も、見守り役の時も、なんかあったかくて、ちょっとうれしくて、いろいろ溢れそうでした。

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(「大切なもの」ワーク中のひとコマ)

このワーク自体は、語り役と聞き役がいればできてしまいます。
それでも、あえて見守る役がいる。
2人がつくる世界を一歩ひいて見ている人がいる。だからうまれる、安心感が確かにあった。
効率的ではないのかもしれない。
例えば6人いた場合、2人で3チームでやった方が、3人で2チームより早い時間で終わるし。
(1人5分としたら、前者は10分、後者は15分)
けれど、それでも見守る役をつくる意味がある。
人ひとり分の物理的な空間のゆとりとか、ふたりだと向き合わねば!となる心に、もうひとりいる安心感を与えてくれたりとか。
言葉でうまく言えないけれど、そういう第3者の必要性を体感できる場でもあった。

これって子育てだったら「家族×学校or幼稚園×地域」だったり、社会人だったら「仕事×家族or友達×地域」だったりするのかなって。
2つの要素だけだとどうしてもバランスが悪くなるというか、ゆとりがなくなる気がしていて。
地域ってどこのジャンルにも関わる結構重要な立ち位置なんじゃ…?と最近感じている。
そう感じる人が多いから地域活性化とか、地域おこし協力隊とか、よく聞くようになってきたのかな。地域の立て直しと並行して、それぞれを繋げていくことも大事だよなあ、とかぼんやり思ったりしました。

プレイバックシアター、新しい自分の発見もあったし、自分と向き合う時間にもなったよ。
単純にたのしいからみんなも機会があったらやってみたらいいよ。

プレイバックシアター/人と人がつながるしくみ

近宣伝が多い…笑

渋谷のラジオに出演してきた!〜後編〜

こんばんは、さきこです。

昨日、自分で書いたアラサー女子が世間から求められそうな要項に自分で傷付きメソメソしていたわたしです。
わたし自身が一番わたしを残念な人だって思っているんだなあ、と改めて実感しました。
だってやっぱどんどん太ってく自分嫌だし、肌も年相応になっていくし、幸せな家庭とか築きたいけど口ばっかだし、じゃあダイエットすれば?婚活すれば?って感じなんだけど、今するとまた過食嘔吐の日々になりそうな不安感半端ないし、結局そういうのできないの全部摂食障害のせいにしてるのかな、甘えてるのかなって思うし。
今朝、急に内側がぐちゃぐちゃしちゃったんだけど、太陽浴びながらひとしきり自分の嫌なとこ認めて泣いたらとりあえず落ち着いた。
30分くらいで落ち着けたから以前よりはバランスの取り方が上手になったみたいですが、まだまだ練習は必要なよう。アラサーにして不安定、残念。笑

さて、健常の方とそれ以外の方が「福祉」っぽくない出会いがどうやったらできるのか?もっとライトに関わり合いを持つ、持ってみようかなと興味喚起できるアプローチ法はないかな?と妄想していた時のことです。
わたしはその中でもこどもに興味があるので、学校や家庭で何となく過ごしにくいこどもたちの居場所みたいなものがつくりたい、と重光さんにお話ししていた時のこと。

「なんでそこまで思えるんですか?」

わたしは今まで教育とか福祉現場にがっつり関わっていたわけでもないし、自分にこどもがいるわけでもないし、確かに何でだろ?って思った。
自分が生き辛かったから、とか、全ての人に生きやすい世の中が結果的にみんなにとって生きやすいと考えるから、とか志っぽい思いもあるにはある。
けど、一番は単純に「たのしいから」です。
たのしくて、おもしろくて、興味深いから、彼らと関わりたい。
不謹慎な言い方かもしれないけど、それが本音。

だって、普通に生活をしていて、自分の脳って髄液が支えてくれているのか〜って改めて思ったり、男女関係について考えるとき心として?体の機能として?遺伝子として?って考えたりしない。
そうやって普段気付かない身近なことにはっとしたり、自分とは違う切り口で物事を捉えている人の意見を聞くことは本当にたのしい。
ハンディを持った知人が増えたO! MORO LIFE(https://www.facebook.com/OMOROLIFE/)で、脳性麻痺のお兄さんの世間に対するアグレッシブな姿勢にカッコいいなあ!って思ったし、視覚障害の方の耳での楽しみ方の上手さにすごいなあ!って思ったし(流暢な小噺、普通におもしろかった)、「カカア天下」って手話使わないくせに一生忘れなさそうだし。
放課後デイで働かなかったら、目も合わない声も出さない子が自分からやりたくなること探しに躍起になることも、思いついた!って用意したわたしが考えもつかなかった教材の使い方をして見て見て!って言う無邪気な笑顔に出会うこともなかった。

異文化交流と同じ。
異業種交流と同じ。
(合コン要素強いけどw)
わたしが気付きもしないこと、知ろうともしないこと、それに出会える。新しい価値観や考え方に出会える。しかも、よりマニアックな。

海外に行かなくても、お高いセミナーに行かなくても、隣におもしろい人がいるかもしれないよ。
人と人同士だし、合う合わないは当然ある。でも、自分と違うからって最初から排除するのはもったいない。

特別新しいアイディアでもないし、「おもしろい」って言葉に引き摺られて上から目線で彼らに接して欲しくはない。
でも、同じ目線でたのしめたら最高だなあ、と。
みんな、わたしの好きな人たちなんです。
好きな人には好きって言う。
好きな人のことを別の好きな人に知って欲しくなる、そういう性格です。
報われないことも多いですが。
もうすぐクリスマスですね。がんばる。笑

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(本日の夕焼け。今日も一日いい天気でしたね)

渋谷のラジオに出演してきた!〜前編〜

こんばんは、さきこです。
寒いですね。ウルトラライトダウンとかヒートテックとか、ユニクロの季節ですね。

さて、タイトルの件。
昨日、渋谷のラジオに出させてもらいました。
といっても約1時間の番組で声発したの30秒くらい。
最近お知り合いになった重光喬之さんのバーターです。社会科見学ですね。

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(真ん中が重光さん、一番左で友達の家のように寛いでいるのがわたし)

重光さんはfeeseという「難病・希少疾患当事者の生きる後押しを」を理念として活動する団体の代表です。(詳しくはこちら→https://www.facebook.com/feese.jp/
ご自身も脳脊髄液減少症(のうせきずいえきげんしょうしょう)という、小学生が覚えたがる呪文のような難病の当事者です。
何らかの理由で髄液が漏れ、髄液によってバランスが保たれている脳や神経系に負担がかかり24時間常に痛みがあるのだそう。(ニュアンスはあっているはず…正解が気になる方はググって)
でも、見た目には全然わかんない。
シュッとしていて、ちょっと顔色悪いかなってくらいの、よく喋るおもしろいお兄さんです。
見た目にはわかりにくい問題、難病に限らず、精神疾患とかセクシャルマイノリティーとか発達障害にもありますね。

ラジオのテーマは「難病・希少疾患患者の働き方」でした。
見えにくい苦しさに、どう理解を得て社会で生活していくのか。適切な支援をどうやって受けていくのか。

こういう話の時、随分前に福祉業界ではない友達とした会話を思い出す。
発達障害とかって最近よく聞くけど、それって結局"障害"に甘えてるよね」

"甘え"とばっさり切るのは乱暴だけど、でも完全に間違っているわけでもないような…その場ではうまく返答できず、もやもやした気持ちを今も少し引きずっている。
引きずり続けて思い至ったもやもやの原因で、現状言語化できることが二つある。

①健常、障害、難病関係なく、今の社会はとても生き辛く、他者を配慮する余裕がない。

みんな自分が生きるのに精一杯だ。
例えばわたしが属するアラサー女子の場合、仕事をして、お金を稼いで、おしゃれして、美容ケアして、インスタ映えする高カロリーフードを食べて、モデルのようなスタイルを目指して、結婚して、子どもを産んでみんなに祝福されないといけない。
ひとつでも欠ければ「残念な人」と見られる。もういい歳なのに、と。
かなりうがった見方だけれど、あながち間違いじゃないと思うのですが、いかがでしょう。
そんなタスクフルな日常で戦っているのに、目に見えぬ困っている誰かへの配慮なんて入る余地がない。

②障害、難病でも全く何にもできないわけではなくやれる事はある。だから、当事者が障害だから、難病だから、と全て諦めるのはなんか違う。

例えば一言で「発達障害」といってもその程度は人それぞれ。
大勢の中だと逃げ出したくなるくらい音や光に過敏でコミュニケーションに支障が出るけど一対一では落ち着いて会話ができる人もいれば、コミュニケーション自体が難しい人もいる。
特性だけでなく、環境や体調によっても大きく左右される。
環境や体調が良ければ、できることも増える。
当事者の特性や状況に合わせて、そうでない人と平等にやりたいことができるように、周囲のそうでない人が当事者にあった環境作りや調整を行うことを「合理的配慮」と言う。(これもニュアンス。正確さを求める方はwebで!)

「合理的配慮」というと、ハンディキャップを持つ人の周りにいる"そうでない人"はみんな何かしらの配慮をすべきだ、という強制感を感じてしまうので、わたしはあんまりしっくりこない。
昨日まで普通に出勤していたのに急に休まれたりすると、当事者の事情は頭で理解できても、だってできるじゃん、できてたじゃん、何でわたしが負担を背負わなきゃいけないの?って思う気持ち、理解できます。この部分は①と繋がる部分があるね。
あと、やってもないのに「難しい」「できない」ってすぐ言うパターンとか。いやいや、こっちだって初めてのことは怖いしやりたくない時だってあるよ!って言いたくなるよね。そこ健常、障害関係ないから!!って。

でもね。もし良かったらなんですけど、余裕がある時だけでもいいから、少しだけ背景を考えてみて欲しいな、と。

日常のささやかな事がうまくできなくて、失敗して、馬鹿にされたり、否定されたり、叱責されたり、数え切れないくらい経験してきのかもしれないな。
どうしてこんな事も出来ないんだろうと、自分を責めて否定して、実際に頭打ちつけたりして、自分を傷付けてきたりしたのかもしれないな。
周りと比べてできていない事実を、本人が誰よりも一番感じていて、一番悔しくて、一番不甲斐ないのかもしれないな。

健常の人に比べて、多かれ少なかれハンディキャッパーは自分の思い描く通りにできないことがあるのも事実。

日々精一杯生きている"そうでない人"たちに、抵抗感なくハンディキャップがある人たちと関われる機会を作れないかなあ、とぼんやり思う。
少しの配慮があるだけで社会参加しやすくなる人は思っている以上にたくさんいる。
でも、その人達のために!!!みたいな熱量多めな感じではなくて、自然にふっとできるような事はないかな。アプローチ方法はないかな。

で、そんな時に重光さんに出会って、お話をしてちょっと閃いたことがある、んだけど長くなっちゃったのでまた明日にします。
やたらと名前が出てくる重光さんについて気になった方はfeese(https://www.facebook.com/feese.jp/)を見てみてね!
ただの重光ファンのブログっぽくなってる。笑

居心地いいところ

こんばんは、さきこです。

昨夜、バブリングバーというところに行ってきました。「思いがけず世界が深まるバー」をコンセプトに、毎週日曜日、新宿ゴールデン街で営業しています。

◯バブリングバー

ゴールデン街というのもあって、ひとりで行くには勇気がいったけど、結果的に行ってすごく良かった。

少し遠回りになりますが、12月に入ってからなんだか慌ただしくて。
大阪の講演会に夜行バスで参戦したり、10時半から14時半までぶっ通しの転職イベントに参加したり、幼稚園でのワークショップにボランティアで関わったり。その合間に友達に会ったり、定期カウンセリングに行ったり、諸々の打ち合わせをしたり、と。ニートって意外に忙しいんだなあ、と思いました。
そんなこんなで、バブリングバーに行く前日あたりから少しバランスを崩しておりました。
常に眠い、ダルい、食べ物を詰め込みたくなる。

原因は予定の入れすぎでもあるのだけれど、一概に"忙しいから"という訳ではないと感じていて。というのもこのサイクル、先月末から続いているもので、こんなに急に疲れを感じるのは何か他のストレス因子があるんじゃないかなあ、と思ったのです。
何だろうなあ?と思い返してみると、ここ数日、というかピンポイントで転職イベントの時なんだけど、"自分以上を見せようとする時間が長かった"んだと気付きました。

ニートなので、基本予定は自分で立てます。
自然と自分の居心地がいい人や場所での予定が多くなる。居心地がいいと、そのままの自分で機能ができる。自分の言葉で話ができる。
現状、そのいい状態を保てるのは、丸ごと認めてもらえる雰囲気のある人や場所にいる時です。
丸ごと認めてくれる人って、表情とか声のトーンとか仕草とか、非言語コミュニケーションまで汲み取ってくれる人が多い様に感じます。
言葉でうまく説明できなくても伝わったり、伝わらなくても理解を示そうとしてくれたり、理解できなくてもとりあえず容認はしてくれる。

そんな中で転職イベントは、「言葉」での説明を求められるし、多かれ少なかれ「ジャッジ」が入る。
その団体にとってわたしは有益か否か、わたしにとってその団体に所属するべきか否か。
丸ごとそのままではなく、メリット・デメリットを見て、比較する。
で、そういう場において、今後関わるかどうかは別として、やっぱ、なんか、認めてもらいたいって思うんですねー。
わたし、ここまで考えてます!ここまで出来ます!!みたいなそんなテンションに知らず知らずになっていました。
だから反動がどーんときたのかな、と。
承認欲求強めだなあ、と改めて。特にキラキラした集団からの。笑
ここ最近、そういった世界から遠ざかっていたのであてられちゃったのもあると思います。

さて、バブリングバーの話に戻すと、わたしにとって居心地のいい場所でした。
バブリングという団体が「大切な人へのカミングアウトを応援する」としているので、お客さんもスタッフさんも"カミングアウトしたい何か"を持っている場合が多い。
その環境下で「摂食障害なんです」と言うと、そこに至った背景とか、どういう症状なのか、とか、生活にどの程度支障が出るのか、とかぽんぽんと聞かれました。で、一通り話が落ち着くと次の話題に移る。
過度に配慮したりはしない、でも特別距離を置かれたりもしない。
その距離感が、心地よかった。
当事者としてそうされたら自分が嫌だから、そうされて嫌だったことがあるから、自然とできる配慮なのかな。

最近、そういう居心地のいい瞬間が多くて、生きやすいんだけど、反面、そうじゃない世界もあって、これはただ逃げているだけなんじゃないか?と思うことがある。
そういうようなぼんやりと感じていたことを、バブリングバーで口に出したとき、もらった言葉にすこし安心した。

「居場所探しを経て見つけた居心地のいい場所には染まらないから大丈夫」

居場所が欲しくて、分かりやすく結婚したいって思っていた時期。家庭を持てば居場所になるんじゃないかって思っていた時期。異業種交流会とか合コンとか婚活パーティーとか、欲しい未来のために、自分を変えていたところがあった。相手が求める自分であれば彼氏はできるし、もっとちゃんと頑張れば結婚も出来たんだろうと思う。
でも出来なかった。その時は出来ない自分を責めたけど、お陰で今、あの時よりももっと健康に生きる道が見えてきた気がする。

今、自分を大事にして(そうしないとすぐに摂食に出るからせざるを得ないのだけれど)自分が居心地がいいところを探して見つけた場所では、相手に合わせることはしない。自分が一番大事、でも相手も好きだし一緒に何かできたら楽しいだろうなって思うから一緒にいる。
正直、まだ不安は残る。
逃げじゃないのか、甘えじゃないのか、いつか裏切られるのではないか、偽善ではないか、言い訳ではないか。
いっぱい考える。無駄かもしれない。
でも、それも込みでわたしだ。
人生なんて無駄でいい。
どうせ無駄だなら楽しいほうがいい。

なんて事を思ったバブリングバー初体験記でした。また遊びに行きたいな。

午前3時の忘備録

おはようございます、さきこです。

昨日、幼稚園の通う子どもたちと遊ぶ機会をもらって、疲れ果てて9時過ぎに寝ちゃったらやっぱり3時くらいに目が覚めるっていう。

2週間ほど前にモニターキャンペーンで貰った本、やっと読み終わった!

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(「落ち着きがない」の正体/スチュアート-シャンカー他)

急に怒り出したり、常に走り回っていたり、逆に部屋の隅っこにじっとしていたり…そういった、「社会性のない」行動をする子どもたちにどう対処すれば良いのか?を科学的に論じています。
「自己制御」ではなく、「自己調整」がどれだけ大切で、ストレスサイクルを断ち、自分らしく生きる為に必要か。
「ああしなさい、こうしなさい、それはだめ!」ではなくて、「そうしちゃう理由を考えて、一緒に緩和していこう」という考え方。
それを経験則ではなく、脳科学から証明する。
科学の切り口から説くことで、何となく感覚でわかっちゃう人だけでなく、論理的思考過多の人も理解を示しやすいのではないかな。

文中に「間脳が親子の情動を繋ぐ」という表現があって、脳の深い部分で親もしくは養育者と子どもは影響しあっているのだそう。
これは、親が笑うと赤ちゃんも安心するものだよね〜的な話だけでなくて、ホルモン分泌がどうとかそういう生物学的な意味の話でもそうなんだって(註釈文献読んでないのでどんな実験したのかとかはっきりわかんないけど)。

で、この部分を読んだ時、思ったよね。「え、でも、これってテレパシー的なやつだよね?」と。
テレパシーってオカルト・ファンタジー寄りな概念を脳科学で証明するのか〜って。ちょっと言い過ぎかもだけと。
で、その時に思い出したのがこれ。

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科学?オカルト!?『Newton』『ムー』がまさかの同時特集!「マルチバース宇宙論」が話題/https://matome.naver.jp/m/odai/2151098678506626401

科学の進歩で、現実と想像って結構近くまできてるんじゃないかなあ、と思ってる。
だから、違和感のある論理が覆されちゃったり、それによって今まで良いとされた価値観が180度反転したりする。
昨日まで良いとされてたものが、明日からはダメってなるかもしれない。
だからこそ、自分でちゃんと判断できるといい。
良いとか悪いとかじゃなくて、好きとか嫌いでいいし、そこに理由はなくてもいいけど自信があるといい。
わたしは、どうしたいのかな。
これを成し得る!なんて大層なものでも、やりたいからやってる〜ってものでもいいよね。ダラダラしたけりゃすりゃいいし。

そして、「わたしはどうしたいのかな」って考えられる、そのベースにあるのは絶対的な安心感。

本の話に戻るけど、子どもが騒いだり走り回るのって安心できないから何とかバランスを取ろうとしてやっている行動なんだって。
現代はいろんなストレス因子がある。
過剰な音や光や「こうせねばならぬ」思想やいろいろ。常にストレス因子に晒されてHPは勝手にどんどん減っていく。
生きるか死ぬかのサバイバル状態になると動物は攻撃するか温存するかになる。
攻撃気質の人は怒ったり泣き叫んだりするし、温存気質の人は無表情になったり引きこもったりする。
子どもだけでなく、大人もそうだね。
みんな、何かしらでバランス取ろうと必死に生きてる。ストレス因子で削られた部分をカバーしないといけないから。
でも、本当は削られた部分を修復する事ができるといいよね。それが「自己調整」なんだよって本でした。

どんどん変わっていく(多様化していく)価値観の中で、「わたしはどうしたいのかな」ってみんなが考えられる環境がつくれるといいなあ。

にじいろの濁流

先週末から目まぐるしくて1日がとても早い。

なのに1週間がとても長い。
小学生みたいな時間サイクルで生きてます。
どうも、こんばんは、さきこです。

先週末のイベントで知り合った人とやたらと意気投合し、その人の活動を一緒にやっていくことになりました。完全なる巻き込み事故。笑
今週に入ってからも、以前から「こんな事したいな〜」と思っていたことを実現できそうなヒントや仕組みと出会えたり、実際にやっている人たちと出会ったり。今まで自分がやってきたことに興味を持ってくれる人が出てきたり。
次から次へと繋がりができて、情報が入ってきて、まるで濁流の中にいるみたい。

そう言えば、仕事をしている時にもこんな状態になった。
仕事を認めてもらって、そうしたら次から次へと案件が入ってきて、いろんなことを求められて、いろんな人と関わって。
あの時も濁流の中にいるみたいだった。
渦の中で沈みたくなくて頑張った。
見捨てられたくなかった。
結果、体や心がアンバランスになった。

だから、ちょっと不安でもある。
またおんなじことになるんじゃないかな…。
でも、今回は大丈夫!ってなんか変な自信がある。
まず、受け身じゃない。あと、嫌われてもいいやって思えてる。
そして、一番大きな要素は「自分も意識しながら動けている」と感じるから。
ここまでやった方がいい、というところまで無理して頑張らない。ここまではやったけどちょっと疲れちゃったから明日にしよう、って出来てる。
やる事だけじゃなくて、自分の事もちゃんとチェックできている、今は。
「仕事」となると変わっちゃうのかもしれないけど。
でも、今、ほんとうにとてもよい状態。
1日の中で、たのしいって感じることが多くなった。わくわくしている時間が長くなった。

で、そのわくわくに飲み込まれちゃうと知らぬ間にやる事過多になっちゃうのでちょっと整理した。

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関わらせて頂いている人、その人たちがやりたいこと、その人たちと関わる時の自分の立ち位置、わたしがその人たちとやりたいこと。

書き出してみると、わちゃわちゃしていたものが整理されて、すとん、と落ちる。
そうすると次にやるべき事が見えてくる。
そこに向かって動く。
そうしたら何かしらの結果が得られる。
副産物もあったりする。
その繰り返し。
そうやって、わたしがつくりたいものを少しずつ形にしていきたい。

経済的な不安はある。
けど、今はまだ甘えられる場所があるから、感謝して恩恵を受けながら自立の道を探していこうと思う。
とりあえず今日は早く寝るー。

ゆきむし

寒い時期になると飛んでいる白い虫。

あれを「ゆきむし」と呼ぶらしい。
いや、ほんとにあの虫を指しているのかわからないけど。
雪が降る前に飛ぶ虫でゆきむしというのがいて、とわたしが教えてもらったのはちょうど1年くらい前の話。
ゆきむしは専門家の間で人気がないらしい。だから、あまり研究が進んでおらず新種をすぐに見つけられる。新種の名付け親に簡単になれるのだそうだ。
街路樹で見かける赤い実をつける木が「ななかまど」という名前で、「七日間かまどで煮ても食べられるようにならないから」という名前の由来も彼女に教えてもらった。

北海道で一緒に過ごした約半年。やたら牛乳を飲んだこと、豪快な夜ごはん、街への買い出し、最後の日のこと。横浜に会いに来てくれたこと。
最近、ゆきむしを見て思い出した。
たのしかったなあ。行ってよかったなあ。
会えてよかった、ありがとう。

相変わらず情緒の緩急に飲み込まれる時がある。
突如湧き出る不安に右往左往する日もある。
どうしようもなく過食に走る日もある。
だけどその時、まだどこかで自分を客観的に見ることが出来るようになった。
身近な人が理解を示してくれる安心感があるから、もだけれど、ゆきむしみたいに日常の中で思い出す顔が増えたのも、少しずつ安定に向かえている理由なのかな、とぼんやり思う。

社会に出てから、特にここ1、2年、人間関係の幅が大きく広がった。
その場限りの人もいるし、少しの期間一緒にいて今は離れてしまっている人もいる。何だかんだゆるい付き合いがある人もいる。
熱い議論を交わしたな、とか、めっちゃ泣かせてもらったな、とか、くだらないことでお腹痛くなるくらい笑ったな、とか。
きっと、これからもっと増えていく。
そういう出会いがあると、単純にたのしい。
たのしいと、もう少しやってみたいなって思う。
そうやって時間を積み重ねられたらいい。

おはようございます、さきこです。
今日も寒いけどいい天気。
今日は逗子に行って、またあたらしい出会い。
たのしみだなあ。