アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

理想は理性の想い

お昼ごはんを食べながらおしゃべりをしていて、彼女が言った言葉。


「理想は理性が想ったことだから、本能とは違うのかなあって」

あー、なるほどーって思った。
そうかもーってしっくりきた。

たのしくおしゃべりをして、その帰り道、じゃあ本能の想いってなんだろう?と考えてみた。

想い、というか、なんだろう、未来に向けたものって何かなあ?

本望、とか、望み?希望?願い??


はじめにちょっといい感じだな、と思ったのが、覚悟。

吾(われ)の心をはっきりと知る。

覚悟って、自分の思いや情熱をはっきり知って動いていくことなのだなあ、と改めて思った。

けど、感情と本能はちょっと違うんだよなあ…と頭を悩ませても出てこなくて、ググったら、ちょっと意味は違うのだけれど、これが今は一番しっくりくるな、という言葉を見つけた。


それは、可能性。


性は、さが、とも読み、「生まれつきの性質」や「天から与えられたもの」という意味。
能は「仕事をする力」「しとげる力」、可は「できる」「成し得る」という意味を持つ。

生まれつき与えられた仕事を成し得る。

自分と向き合って、世界とぶつかって、与えられた仕事に気付いて、それに全力を注ぐ、そんなイメージ。

国語的に言えば見当違いなのでしょうが、本能の求める未来は可能性って、なんかいいなあって思った。

現実と理想ってきくと、今とその先にとても大きな乖離があって、そこに向かうのは到底できない、困難すぎる、というようなネガティブなイメージが湧く。

現実と可能性ってきくと、今とその先が繋がっていて、ここから始めていけば少しずつでも変わっていって、もしかしたら今思っているものもはるかに超えていっちゃうのかも、というようなキラキラわくわくなイメージがする。



理想なんて掲げなくていい。
自分の可能性を探求していく。

それには、多分人生は短い。
だから、本気で、自分の時間やお金や愛を、これだ!ってものに、人に、注ぐ。
そこそこなものや、なんとなくの人に構っている暇はないの。


夏だね。
キラキラの、夏。

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君の声を聴きたい

最近、頓に会議やミーティングの場が苦手になってきている。

なってきている、というよりも、多分ずっと苦手で、けれど、「議論で制する」ことが良いとずっと思ってきたから、苦手だということに蓋をしてきたのだと思う。
議論で勝つ事が大事、いつから思っていたのかはわからないけれど、企画や営業の仕事できっと強化されのだろうなあ。

それにもう、飽き飽きしていて。
けれど、理詰めで自分の優位性を示そうとする癖みたいなものが中々抜けず、また一方で論理立てて話すこと、きちんと意見を述べることはやっぱり必要だよなあ、思っていた時、糸井重里さんの言葉に出会った。

「会議に出て、一言も話さない人にもいる意味はある。声が大きい人の意見が全てじゃない。話さない人は話さないだけで、考えていないわけではない。」

「だから、ぼくはそういう人たちの考えを聴けるとうれしい」、だったのか、「そういう人たちが話したくなるような空気作りをしたい」だったのかは定かではないけれど。

その時、なんだかすごく、ほっとしたのを覚えている。

たくさんの人と会って、話して、議論をしている人が、話さない人、話せない人にも価値があるって発信してくれたことが、とてもうれしくて、そして安心した。

話せなくても、いいんだ。その場で瞬時に言葉にしなくてもいいんだって。

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先日、ダチョウの卵を食べる会というイベントに参加した。
とてもアットホームで、イベント後に参加された方と少しやりとりをして、なんだかまるで親戚の集まりみたいな感じでしたね、とほっこりした。

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イベントの時、すごいなあ、と思ったのは主催の方の動きだった。
特にすごく統率を取るわけでなく、ゆるりといて、子どもたちと遊んだり、写真を撮ったり、お店の人と雑談したりしている。

けれど、要所要所で、誰かがひとりぽっちにならないように声を掛けたり、注目させたりしていたのだ、さらりと。

かっこよすぎか、と心の中でつっこんだ。

わちゃわちゃと遊んでいて、ふとした瞬間にまとまりから外れちゃったボールを、ポーンとまとまりに返すような、自然なファシリテーションだった。

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障害福祉という世界に気が付いたらいた、という今があって。
周りはそれこそ10年選手というのか、そういう問題についてずっと考えてきた人たちだったり、当事者やその家族として常日頃から肌感覚として問題意識を持っている人たちだったりする。

その中で、特別ここを変えたい!ということがある訳でも、具体的にこういうことがしたい!という訳でもない自分、について結構な頻度で考える。

どうして、わたしは関わりたいと思うのか。
何故、ここにいるのか。
ここにいていいのか。

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たったひとつのそれだけを見る。一瞥だけでわかったつもりにならない。一方的に言葉をあてこむこともしない。それまで培ってきた価値観を頼りにしない。その存在と、ただただ出会う。なにごともおこらないその鮮烈さをもって、素朴にただ出会う。そうすることで、その奥からやっと浮かぶものがある。それを待つ。それをこそ見る。そして撮ってきた。

自分の写真においての行いを、そういうふうに思っている。」
(齋藤陽道『それでもそれでもそれでも』あとがきより/http://www.nanarokusha.com/afterword_soredemo

この一節を読む時、いつも思い浮かぶのは児童デイで関わっていた子どもたち。

いつも「はあ?」「つまんない」ばかりだった子が、共通の話題が少しずつできて、気付けば自分から話しかけてくれるようになった時。
俯きがちでおとなしい子が、はじめてちゃんと目を見て笑ってくれた瞬間。

知識も経験もなかったから、ただただ必死で、目の前のその子に向き合うように心掛けてきた。

彼らを思う時、今でも涙が出る。
会いたいとすら思う。

自分勝手だなあ、と思う。
今さら会ってどうするんだよって、この先ずっと付き合っていけるわけでもないのに。

だから、せめて祈る。

君たちの未来に、いろんな色の光がありますように。
選べるだけの選択肢や居場所や生き方がありますように。
あの、忘れられないくらい心揺さぶる素敵な表情になる瞬間が、この先も出来るだけたくさんありますように。

その為に、おばちゃんは少しずつだけど動いてみようと思う。

ちいさくても、たどたどしくても、
わたしは、君の声が聴きたい。

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夏に至る。

ここ数年、この時期になると、ああ、もう今年が終わるなあと思っていた。

夏はあっという間に過ぎて、秋はほんと一瞬で去って、気付けば年末モードになっていく。

けれど、今年は素直に、ああ、もうすぐ夏が来るなあと思う。

暑くて、キラキラして、電車の冷房に震えて、日焼け止めを塗っても塗っても焼けていく、夏が来るなあ、と。

その感じが、すごくいいなって思う。

すごく好きだなって思う。

その感じを、ちゃんと味わいたくて、ぐっと見つめようとすると、指先からするりと抜け落ちてしまうのだけれど。

わくわくするような、そんな感じがする。

夏が来るね。

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説明は、なくていいよ

つい最近まで、「伝える」と「表現する」は同じだと思っていた。

正確に言うと、言葉の上での違いはわかっていたけれど、自分の行動を振り返ると混同していたと言うか、「表現」ってしてこなかったなあ、と。

「もっとわかりやすい表現にして」
「一言で伝わる言葉に置き換えて」

企画の仕事をしていた時、よく言われた言葉。
どうしたら他者により伝わるのか、どんな言葉だったらインパクトがあってわかりやすいか、を昼夜必死で考えていた。

「表現は、わかりやすくならねばならぬ」

その時に、強固な条件付けがわたしの中でされたのかもしれない。

これは決して弊害でなくて、むしろ誰に対してもわかりやすい言葉は何か、伝え方は何か、を自然に考える姿勢が身についていたからこそ、発達障害を持つ子どもたちと接する時も違和感がなかったのかもしれない。
こう言えば普通は伝わるのに伝わらないのは相手が悪い!とは思わず、伝わらないのかーじゃあ違う方法考えようってなるから。

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今よりももっと不安定だった時、心配してくれる人たちから「思ってることちゃんと言って」「言ってくれなきゃわからない」という言葉をもらった。
理解しようとしてくれる姿勢に対し、当時のわたしはちょっとパニックだったし、心の底ではこう思ってた。

どうせ言ったってわからないでしょ、って。

不安定な中で、自分の状況や感情を相手にわかるように説明することはできないよって思っていたのかもしれない。

そう、わたしにとって「伝える」はいつだって「説明」だったんだって最近気付いた。

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年明けに「強み発掘」というものをしてもらって、「自分を表現する強み」がある、と教えてもらった。
その時は、あんまりピンときていなくて、そりゃそうだ、あの時は「表現=説明」だって思っていたから。

自分の中にあるものを、一度思考まで持ってきて、相手に伝わるように、今までの中でより伝わりやすかった言葉に変換をして説明をする。

え、めっちゃしんどいやん…って思った。

だから、ずっと頭の隅にはあったけど、保留していて、けれど、そうだね、「表現」って「説明」じゃない。

「表現」は表すことだ。
中にあっては見えないものを外に出すこと。
ただ出す。あらわす。現す。
見えるものにする。

高校生の時、英語の授業で教室のドアのところで、先生がappearとdisappearを出たり入ったりして教えてくれたのを思い出した。

出てくるだけ。
出すだけ。
それだけでいいの。
そういう表現もあるってこと。
そういう言葉の出し方もあるってこと。

そんな発見を、最近したんです。

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『 』

乗り物が、好きだ。


電車も新幹線も寝台列車も飛行機も自転車も車も船も。夜行バスは最近ちょっとしんどいけれど。
近くと遠くで、違う速度で流れて行く景色を、ただただ眺める時間が好きだ。

特に吹きっさらしの移動手段が好きで、だから御蔵島に行く東海汽船の甲板なんて最高で。
海風に晒されながら、ビールを片手にキラキラした水面や遠くを流れる島々を眺める、あの時間。
何度も御蔵に行くのはイルカだけでなくて、あの時間があるからなのかもしれない。

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「社会人」と言われるようになって、気付けば10年以上経った。
社会に出たときに思っていたような未来ではなくって、意に反してフラフラとした10年間だった。

お蔭でいろんな経験もできた、おもしろい人生だと思う。
けれど、やっぱり心の真ん中で、普通の幸せ、と呼ばれるものに強く強く憧れている。

出世。結婚。出産。
役職や妻や母といった新しい役割。

いいな。
純粋に思う。

そんな気持ちでいた3回目の転職の時にカンボジアに行った。
そこで仲良くなった大学生の女の子。
彼女がわたしに言った言葉がある。

「さきさんの生き方は、わたしの理想です」

冗談でも茶化している訳でもなく、真剣だった。
その時、思った。
こんなちゃらんぽらんに見える生き方でも、憧れてくれるような人がいるんだって。
見え方は、ほんとうに人それぞれなんだって。

すごく、うれしかった。

自分のやりたいことって何だろう、と悩んで、自営なのかバイトなのか正社員なのかグルグルとしていたけど、とりあえず生きていけるだけのお金を稼げるところに行こう、と割り切れたのは彼女の言葉があったからかもしれない。

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小田原で営業をしていた時、営業先で急激な腹痛に襲われ、自分で救急車を呼んで病院に運んで貰ったことがある。
搬送先の病院では特に問題はない、と言われたけれど、不安も強くて家の近くの病院に行った。はじめて行く、ちいさな町の病院だった。
先生はちいさな女の人で、問診をして、点滴を受けて、その後もう一度問診があった。
ひと通りわたしの話を聞いて、先生は言った。

「がんばったね」

当時のわたしは、今思うと何でそんなに頑張っていたのかわからないくらい全てに全力で、家族にも友達にも「頑張りすぎないでね」「もう十分、頑張れてるよ」と言われていた。

けど、この時初めて「がんばったね」と、「もういいよ」と言ってもらえた気がしたんだ。
よくがんばったね、えらいよ。

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趣味は何ですか?と聞かれると考えてしまう。
では好きなことは?と聞かれたら、何だろう、海とか自然が多いところに行くことかな。
そして、そう、そこに風があったなら、もっといいな。

風のようにありたい、と思う時がある。
風のように、気の向くままに、いろんな場所を、人を訪れたい。
けれど、そろそろひとところに留まった方がいいのかな、そういう努力をしなければならないのかな、と世間に触れて、思う。
その方が、きっと楽なんだと思う。

もういい加減。
いい歳なんだから。

けど、ただフラフラとしてきた訳じゃない。
自分らしく生きる道を探して、わたしなりに、信念と呼べるほどのものじゃないけど、考えを持ってここまで来た。
結果として提示できるような、形のあるものは今はまだ、何一つないけれど。

そんな生き方に憧れてくれる人がいる。
たったひとり、あの時だけかもしれない。
それでも、そういう子がいた。
それは、十分な形なんじゃないか。
わたし、という作品。

まだまだ未完成で、世間の当たり前とかこうあるべき、という呪いに時に負けそうになるけれど、すんでのところで留まっている。

なんで、戦うんだろう。

自分らしくいられないとおかしくなってしまう性質なのも勿論ある。
けど、最近、もう一つ、思うことがある。

わたしのような生き方に憧れてくれる人が例えばいたとして、彼らが不安になったり心細かったりする時、そっと寄り添える人でいたい。
不安や恐れを吹き飛ばして、そっと背中を押せる、そんな風のような人になりたい。

とても大きな夢だけど、ちゃんと叶えられるよう、地道に愚直に生きていこう。

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東京は、あかいろ

御蔵島に行って


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海と緑と穏やかな時間に浸って

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イルカの気まぐれさに振り回されながら

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身体いっぱい使って遊んだ。

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寝て、食べて、海で遊んで、また食べて、寝て、星空を眺めて、秒針の音がない時間。

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帰りの船から見た東京は、ちょっとゾッとするほど赤かった。
高層ビルのてっぺんで機械的に明滅する無数の赤いライト。航空障害灯という、飛行機がぶつからない為のもの。空飛ぶものの為に作られたものだから、地上にいると見えない。こんなにたくさんの光る赤の下で暮らしているのか、と新鮮な驚きがあった。

だから都会にいると焦ったり、攻撃的になったり、オーバーワークしすぎちゃうのかな。

赤は情熱の色。積極性の色。行動的な色。
転じて、焦り、怒り、攻撃、の色。

赤の補色は緑。
疲れてくると自然を求めるのは、赤で染まった身体を中和させようとする本能的なものなのかもなあ、なんて思った。

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自然の色合いは、赤や緑や青や、いろんな要素が混じりあっていて、だから、ほっとするのかもしれない。


Invisible sensation

UNION SQUARE GARDENの『Invisible sensation』という曲が好きでして。

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youtubeの組み込み方がよくわかんない…)

ニゾンの曲は呪文みたいな言葉の羅列で、ルー大柴並みに英単語がちょいちょい混じるので聴いてるだけだけだと何歌ってるかわかんないんですよね。
けど、なんかこれいいな、と思って歌詞検索したら、もう大好きになりました。

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ねえ、ここから遠く遠く目指すとして
一体何が見つかるかなんて
考えてる時点でもう、夢中心コースアウト
見逃すなよ、この瞬間をscopeしろ
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遠い未来を目指していこうぜ!というありがちなものかと思いきや、いやいやそんなこと考えてばっかいないで、今ここをしっかり感じなさいよ、と。すごい、ハッとした。

わたしはもともと妄想とか想像が好きな子で、典型的な一人っ子、ひとりで割と無限に遊んでいられるタイプだった。
そして、いつからなのか最早わからないのだけれど、わたしは自分が思い描いたちょっと先の未来の中をずっと生きてきた気がする。

こういう行動をするとこういう結果が得られる。あの子にこう言ったら、きっとこういう反応をする。あの人にこういうことをすると、こんなことを言われる。

想定の結果が意外に当たらずとも遠からずな感じで、だから余計に想像の中で進んでしまう。けれど、やっぱり現実とは違うのでその誤差がどんどん広がっていって、いつか辻褄が合わなくなる。
そして、その想定外に出会うとパニックに陥る、というような、そんな人生。

いつか全てそうなってしまうのだったら最初からない方がいいや、と内側にこもっていく。

けれど根本的には、人が好きで、関わりたくて、というジレンマ。

そこをちゃんと自覚して、本当はどうしたいんだっけ?今、わたしはどう感じてるのかな?と『今』にちゃんと向き合ってきた半年だったと思う。

先日、五感セラピーのホームケアセラピストといものに合格しまして、ライセンスを授与しました。

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その名の通り五感、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚でストレスケアをしていく、といもの。

カラー診断を元にカウンセリングをして、その人その人にあったケアをしていきます。
(詳しくは五感セラピーHPへ→http://gokan-japan.com/

まだまだひよっこですが、お客さまに対して施術ができるようにはなったのでご報告でした。
しばらく糸掛曼荼羅で頭がいっぱいになりそうなので、落ち着いたら何かしていきたいなあ。

ちなみに、冒頭紹介した『Invisible sensation』は『見えない感覚』という意味。なんだか五感に似ているなあ、とも思ったり。

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願えばきっと叶うなら
苦労なんて辞書にはないだろうね
努力だけじゃ未来は保てない
目の前の希望を頼って拾って
重宝したら一歩先へ
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願いや努力だけでなく、希望があるから未来に向かって一歩進める。大層なものでなくても、目の前の希望に頼っていいんだよ、と。
「希望」に「頼る」ってあんまりない言い回しだけど、なんかいいなあって思った。

ちなみに、来月末に糸掛曼荼羅ワークショップやります。
不思議なネパールカレー屋さんで実施。
気になる方は是非お気軽においでください〜。

◉糸掛曼荼羅であそぼうinチャンドラ・スーリヤ

日時:6/30(日)10:00〜12:00
場所:チャンドラ・スーリヤ
(最寄駅:小田急江ノ島線南林間駅より徒歩2分)
参加費:2000円前後
(WS後のワンオーダーお願いします)

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詳細はこちらから。

みなさまのお越しをお待ちしております!