アラサー女子のジブンさがし

31歳、独身、彼氏なし、貯金そこそこ、実家暮らし女子の雑感です。暇つぶしにどーぞー

それでも、それでも、それでも

コミュニケーションの最小単位は、個対個だと思う。

会話のキャッチボール、とよく言うけど、ボールを使ったキャッチボールも個対個だ。
どんな場所でするのか、ボールの種類はどうか、相手との距離はどうか、違いはあるが、個対個、というのは変わらない。

わたしは、大人になって気付いた時にはボールになっていたように思う。
人から人へ飛び移る。時には人と人を繋げたりする。
それは別に悪いことではなくて、むしろ糸井重里は「もういっそ、あなたがボールになりなさい」と言うくらいだから、いいことの部類に入るのかも知れない。

それでも、やっぱり、投げる側でいたい。受け取る側でいたい。そんな風に思えたのは、ほんとうにここ1、2年のこと。
出逢う人、出逢う人、みんな楽しそうにキャッチボールをしていたから。
楽しそうな人たちに、少しでも触れられるボールは、そこそこ気持ちがいい。
だけど、そこそこ、なんです。
思いっきりボールを投げてみたいなあ、とね。

けど、いざ投げようとした時に、投げるわたしがどこにいるのかわからなくなっていた。
行って帰る、場所を忘れてしまった。
(まるで何かの歌詞のよう)

なんで忘れたかったのか。
自分が嫌いだったから。

なんで嫌いだったのか。
太っているから。ワガママだから。面倒臭がりだから。努力しないから。プライドが高いから。口だけで行動が伴わないから。格好悪いから。明るくないから。真面目すぎるから。すぐに親に当たるから。摂食障害だから。情緒不安定だから。自分を好きになろうとしないから。

振り返れば自分自身を見たくない理由はたくさんあって、そりゃ忘れたくもなるわな、と思う。まあ、そんな理由、自分が勝手に作ったものですけどね。

これではダメだ。
「帰ってくる」練習をしよう、と、「行って」ばかりじゃダメだろう、と。

なんでダメだと思えたか。
ちゃんと人と向き合いたいって本当に思い始めたから。

なんで、今更ちゃんと向き合いたいのか。
仕事で子どもたちと接して、ボールとしてじゃなくて、相手として彼らとキャッチボールをしたい、と思ったから。

なんでか。










いや、それは、もう、
楽しいから、でしょう。






その方が楽しいから。
ボールとなんて会話してくれないし、キャッチできた時の嬉しそうな顔もしっかり見えないし。
何より一緒にやってる感、ボールじゃ感じられないもん。やられてる感だけあってもこっちがつまらない。

一人一人ときちんとキャッチボールするのは、そこそこ疲れる。
特にわたしの場合はコミュニケーションの方法が効率的でないので余計に疲れる。(この辺りはまた今度書きます)

それでも、楽しい方がいいなあ。
この間、「カンナさん」でも言っていたけど、「楽より、楽しい」。その方がいい。

そんな事を思っていた矢先に、こんな言葉に出逢いました。

『透明なあなた

どうしてもあなたのことがわからない。
すぐそばにいながら、あなたがとても遠い。

あなたはぼくではない。
それでも、まず自分自身を
よりどころにしなければ
あなたとの関係は始まらない。

だから、ぼくをあなたへ差し出す。

ぼくはあなたではない。
それでも、あなたもまた
あなた自身をぼくに差し出している。

差し出されるそれらが
交わるところで関係が始まる。

ぼくはすでに透明なあなたであった。』

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この記事のタイトルにも使わせていただいた「それでも、それでも、それでも(齋藤陽道)」の最初のセンテンス。
誰かとの関係を始めたいから、内へと向かう。
30過ぎて今更だけど、今更から、今更ながら始めようと思います。




齋藤陽道
「それでも、それでも、それでも(ナナロク社)」