アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

さん

こんばんは、さきこです。

今日、学生の頃からのお友達と久しぶりにランチをしてきました。
意外に友達に対して自分から「会いたい!」って言うことが少ないわたしの、数少ない「会いたい!」って言う人たちです。
(会いたい!って言わなくても会いたい気持ちはあるのよ。誘って。笑)

どうして会いたいかって、もうね、パワフルなんですよ。ずっとしゃべってる。ずっと笑ってる。
彼女たちは結婚していて子どももいて、ライフスタイルが違うし、わたしが想像つかないようなしんどさやさみしさもあるんだと思う。
でも、そういうの全部笑って吹き飛ばすようなパワーがある。さらっとわたしの話を聞いてくれて背中を押してくれたりする。超男前。
だから時々無性に会いたくなる。
こういう縁がゆるゆると繋がっているって本当に幸せでありがたいことだなあって思います。

で、タイトルなのですが、今日のランチ会も3人。昨日打ち合わせがあったのですが、それも3人。一昨日参加したワークショップでも、3人でグループを組んで行いました。
「3(さん)」がここ数日多いなあって。

2、でもなく、4、でもなく、3。
その理由をワークショップの時に少し教えてもらった気がしました。

そのワークショップは「プレイバックシアター」という即興劇を使ってコミュニケーションしよう、というもの。
元演劇部のわたしにとって「即興劇」というと、その場でクリエイリョンしていく、エンターテイメント要素の強いものかと思っていました。
けれど、実際は違って。
遊びを通して自分と他者を知って、認めて、共感してゆっくりとアイスブレイクをした後に、自分と向き合う作業を他者の力を借りて、無理せず、けどひとりでやるよりもより深くしていける、そんなものだったなあ、と。
刺激的な楽しい!というものではなく、ほんのりあったかい癒しなワークショップでした。

特にわたしの心が動いたのは、自分の「大切なもの」を相手に伝えて、その相手が「大切なもの」になりきって、自分に語りかけてくれる、というワーク。
この時、語る人、話を聞いて「大切なもの」役をする人、見守る人、の3つの役割に分かれて行います。
「大切なもの」は、本とかスマホとか物質なので、普通に考えたら恥ずかしくてできないと思うんですよね。
だって、「はい、じゃああなたは今からスマホです。スマホになりきってしゃべってください!」とか言われても、いやいや〜ってなりません?
でも、そのスマホは、語る人にとってはとっても大切なものなわけです。
どうして大切なのかって、聞いて演じる人に真剣に語るんです。
その真剣さを受け取るとね、自然と恥ずかしさとかなくスマホ役が演じれちゃうんです。
真剣な気持ちに、真剣に返そうって思う。
わたしが素直すぎるってのもあるのかもしれませんが。
わたしはこのワークの時、もうずっと泣きそうで。語り役の時も、聞き役の時も、見守り役の時も、なんかあったかくて、ちょっとうれしくて、いろいろ溢れそうでした。

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(「大切なもの」ワーク中のひとコマ)

このワーク自体は、語り役と聞き役がいればできてしまいます。
それでも、あえて見守る役がいる。
2人がつくる世界を一歩ひいて見ている人がいる。だからうまれる、安心感が確かにあった。
効率的ではないのかもしれない。
例えば6人いた場合、2人で3チームでやった方が、3人で2チームより早い時間で終わるし。
(1人5分としたら、前者は10分、後者は15分)
けれど、それでも見守る役をつくる意味がある。
人ひとり分の物理的な空間のゆとりとか、ふたりだと向き合わねば!となる心に、もうひとりいる安心感を与えてくれたりとか。
言葉でうまく言えないけれど、そういう第3者の必要性を体感できる場でもあった。

これって子育てだったら「家族×学校or幼稚園×地域」だったり、社会人だったら「仕事×家族or友達×地域」だったりするのかなって。
2つの要素だけだとどうしてもバランスが悪くなるというか、ゆとりがなくなる気がしていて。
地域ってどこのジャンルにも関わる結構重要な立ち位置なんじゃ…?と最近感じている。
そう感じる人が多いから地域活性化とか、地域おこし協力隊とか、よく聞くようになってきたのかな。地域の立て直しと並行して、それぞれを繋げていくことも大事だよなあ、とかぼんやり思ったりしました。

プレイバックシアター、新しい自分の発見もあったし、自分と向き合う時間にもなったよ。
単純にたのしいからみんなも機会があったらやってみたらいいよ。

プレイバックシアター/人と人がつながるしくみ

近宣伝が多い…笑