説明は、なくていいよ
つい最近まで、「伝える」と「表現する」は同じだと思っていた。
正確に言うと、言葉の上での違いはわかっていたけれど、自分の行動を振り返ると混同していたと言うか、「表現」ってしてこなかったなあ、と。
「もっとわかりやすい表現にして」
「一言で伝わる言葉に置き換えて」
企画の仕事をしていた時、よく言われた言葉。
どうしたら他者により伝わるのか、どんな言葉だったらインパクトがあってわかりやすいか、を昼夜必死で考えていた。
「表現は、わかりやすくならねばならぬ」
その時に、強固な条件付けがわたしの中でされたのかもしれない。
これは決して弊害でなくて、むしろ誰に対してもわかりやすい言葉は何か、伝え方は何か、を自然に考える姿勢が身についていたからこそ、発達障害を持つ子どもたちと接する時も違和感がなかったのかもしれない。
こう言えば普通は伝わるのに伝わらないのは相手が悪い!とは思わず、伝わらないのかーじゃあ違う方法考えようってなるから。
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今よりももっと不安定だった時、心配してくれる人たちから「思ってることちゃんと言って」「言ってくれなきゃわからない」という言葉をもらった。
理解しようとしてくれる姿勢に対し、当時のわたしはちょっとパニックだったし、心の底ではこう思ってた。
どうせ言ったってわからないでしょ、って。
不安定な中で、自分の状況や感情を相手にわかるように説明することはできないよって思っていたのかもしれない。
そう、わたしにとって「伝える」はいつだって「説明」だったんだって最近気付いた。
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年明けに「強み発掘」というものをしてもらって、「自分を表現する強み」がある、と教えてもらった。
その時は、あんまりピンときていなくて、そりゃそうだ、あの時は「表現=説明」だって思っていたから。
自分の中にあるものを、一度思考まで持ってきて、相手に伝わるように、今までの中でより伝わりやすかった言葉に変換をして説明をする。
え、めっちゃしんどいやん…って思った。
だから、ずっと頭の隅にはあったけど、保留していて、けれど、そうだね、「表現」って「説明」じゃない。
「表現」は表すことだ。
中にあっては見えないものを外に出すこと。
ただ出す。あらわす。現す。
見えるものにする。
高校生の時、英語の授業で教室のドアのところで、先生がappearとdisappearを出たり入ったりして教えてくれたのを思い出した。
出てくるだけ。
出すだけ。
それだけでいいの。
そういう表現もあるってこと。
そういう言葉の出し方もあるってこと。
そんな発見を、最近したんです。