アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

君の声を聴きたい

最近、頓に会議やミーティングの場が苦手になってきている。

なってきている、というよりも、多分ずっと苦手で、けれど、「議論で制する」ことが良いとずっと思ってきたから、苦手だということに蓋をしてきたのだと思う。
議論で勝つ事が大事、いつから思っていたのかはわからないけれど、企画や営業の仕事できっと強化されのだろうなあ。

それにもう、飽き飽きしていて。
けれど、理詰めで自分の優位性を示そうとする癖みたいなものが中々抜けず、また一方で論理立てて話すこと、きちんと意見を述べることはやっぱり必要だよなあ、思っていた時、糸井重里さんの言葉に出会った。

「会議に出て、一言も話さない人にもいる意味はある。声が大きい人の意見が全てじゃない。話さない人は話さないだけで、考えていないわけではない。」

「だから、ぼくはそういう人たちの考えを聴けるとうれしい」、だったのか、「そういう人たちが話したくなるような空気作りをしたい」だったのかは定かではないけれど。

その時、なんだかすごく、ほっとしたのを覚えている。

たくさんの人と会って、話して、議論をしている人が、話さない人、話せない人にも価値があるって発信してくれたことが、とてもうれしくて、そして安心した。

話せなくても、いいんだ。その場で瞬時に言葉にしなくてもいいんだって。

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先日、ダチョウの卵を食べる会というイベントに参加した。
とてもアットホームで、イベント後に参加された方と少しやりとりをして、なんだかまるで親戚の集まりみたいな感じでしたね、とほっこりした。

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イベントの時、すごいなあ、と思ったのは主催の方の動きだった。
特にすごく統率を取るわけでなく、ゆるりといて、子どもたちと遊んだり、写真を撮ったり、お店の人と雑談したりしている。

けれど、要所要所で、誰かがひとりぽっちにならないように声を掛けたり、注目させたりしていたのだ、さらりと。

かっこよすぎか、と心の中でつっこんだ。

わちゃわちゃと遊んでいて、ふとした瞬間にまとまりから外れちゃったボールを、ポーンとまとまりに返すような、自然なファシリテーションだった。

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障害福祉という世界に気が付いたらいた、という今があって。
周りはそれこそ10年選手というのか、そういう問題についてずっと考えてきた人たちだったり、当事者やその家族として常日頃から肌感覚として問題意識を持っている人たちだったりする。

その中で、特別ここを変えたい!ということがある訳でも、具体的にこういうことがしたい!という訳でもない自分、について結構な頻度で考える。

どうして、わたしは関わりたいと思うのか。
何故、ここにいるのか。
ここにいていいのか。

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たったひとつのそれだけを見る。一瞥だけでわかったつもりにならない。一方的に言葉をあてこむこともしない。それまで培ってきた価値観を頼りにしない。その存在と、ただただ出会う。なにごともおこらないその鮮烈さをもって、素朴にただ出会う。そうすることで、その奥からやっと浮かぶものがある。それを待つ。それをこそ見る。そして撮ってきた。

自分の写真においての行いを、そういうふうに思っている。」
(齋藤陽道『それでもそれでもそれでも』あとがきより/http://www.nanarokusha.com/afterword_soredemo

この一節を読む時、いつも思い浮かぶのは児童デイで関わっていた子どもたち。

いつも「はあ?」「つまんない」ばかりだった子が、共通の話題が少しずつできて、気付けば自分から話しかけてくれるようになった時。
俯きがちでおとなしい子が、はじめてちゃんと目を見て笑ってくれた瞬間。

知識も経験もなかったから、ただただ必死で、目の前のその子に向き合うように心掛けてきた。

彼らを思う時、今でも涙が出る。
会いたいとすら思う。

自分勝手だなあ、と思う。
今さら会ってどうするんだよって、この先ずっと付き合っていけるわけでもないのに。

だから、せめて祈る。

君たちの未来に、いろんな色の光がありますように。
選べるだけの選択肢や居場所や生き方がありますように。
あの、忘れられないくらい心揺さぶる素敵な表情になる瞬間が、この先も出来るだけたくさんありますように。

その為に、おばちゃんは少しずつだけど動いてみようと思う。

ちいさくても、たどたどしくても、
わたしは、君の声が聴きたい。

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