言葉に出してみたい
過去の自分のブログを振り返ってみた。
気取って書いていたり、変にこねくり回していたり、何重にもオブラートに包んでいるものもあった。
今書いているこの文章も、きっと後から見返したら上滑りな言葉なんだろう。
それでも、今は、全部出したい。
一日中、寝込みながら、ぼんやり。
その中であくみたいに浮かんでくるもの全部出して、コクのあるスープを作るように。
100を超える記事の中で、その時々で感情はブレ、文調も変わり、それでもひとつだけ変わらないものがあった。
一生懸命だった。
いつだって一生懸命に、どうにかしたい、と足掻いていた。
全て読み返すのは恥ずかしいくて、さらさらと読み飛ばすその要所要所で必死さを感じて、愛おしく感じた。
ああ、頑張って生きてきたね。
だから、今があるねって。
今だってしんどい時はある。
なんでかよくわからない疲労感で寝込んでいる今だってそう。
どうしてもっと出来ないんだろう、
どうしてみんなと同じに出来ないんだ、
もっと容量よく、もっと拘らないで、
しんどくなる前にどうして気付けないのか。
成長していない自分に呆れたりする。
だけど今は、しんどいねって認められる分、頑張ったねって自分で言える分、前よりもしんどくない。
いろんな人と出会って、いろんな感情に触れて、たくさんのものと関わることで、わたしはわたしをより強く発見する。
内観は、ひとりではできない。
うれしい、も、たのしい、も、さみしい、も、かなしい、も、はらだたしい、も、全ては何かへの反応で、だからひとりぽっちからは産まれない。
その時々の反応を、ひとつひとつ丁寧に見ていく作業は大変で、実はそんなことしなくたって生きてはいける。
けれど、無視できない。
部屋の隅々まで綺麗にしたいのと似ている。
カーペットを剥いで、掃除機をかけて、水拭きをいつだってしたい、のと似てる。
やめればいいのに、そこは譲れないみたい。
面倒くさくても、怖くても、痛くても。
七転八倒しながらも、馬鹿みたいにまっすぐ、わからないひとつひとつに向き合っていきたい。
時間はかかるし、置いてけぼり感を感じることもある。
近くにいる人には心配かけたり迷惑かけたり、ほんと面倒くさくてごめん。
でも、向き合う。
逃げない。
これは覚悟だ。
いや、どうだろ。
また性懲りもなく逃げるかもしれない。
怖いし。けど、一旦今は。
そうして生きていきたいと、言葉に出してみたい。