アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

ぐるぐるループから抜け出したい

こんばんは、さきこです。
急に寒くなりましたね。わたしはピーク時よりも10㎏強増えた脂肪、起毛パーカー、ウィンドブレーカー、ネックウォーマーという出で立ちで出社し、少し汗ばみました。

さて、前回の記事で書いた「五感セラピー」。
思うところがあって、ちゃんと勉強することにしました。思うところってご大層な前置きをしましたが、単純にセルフメンテナンスをちゃんとできるようになりたいと思ったからです。
「自分を愛するってことがわかった!」とか書いていたけど、ひとりで継続するのは難しく…結局それな!って感じだけど。
それでも、あの感覚は必要な時に自己再現できたほうがいい気がして一念発起しました。何度目だ、と突っ込まれそうだけど、いいの。

先日、1回目の授業がありました。
一番初めは先生と一対一で自己分析をします。
心理学的なもの、カラーセラピー的なものを組み合わせた課題をいくつか行いました。
その中で印象的だったのが以下の2点。

①わたしは、ヘタレわがままであること
②幼児期のどこかで感情の発達を止めた可能性があること

①は、まあ、そうだよね…的な。
思う節はたくさんあるし、メンタルクリニックで受けたテストの結果とも一致してる。
メンタルクリニックでの結果は、母性が満点で父性が人並み以下、というもの。父性=責任感を持って行動すること。その値が低いので、責任感を持って行動できない口ばっかりのヘタレ、ということになる)
ただ、新しかったのは、短所を補う必要はない、ときっぱり言われたこと。
かといって長所で戦うわけでもない。短所を突き詰めて強みにするのがベスト、なのだそう。

つまり、ヘタレでわがままな自分を前面に押し出して生きていくのがベスト、ということ。
















いや、それめっちゃ嫌われるやーーーん。





けど、それがいいんだって。
嫌う人もいる。けど、確実に「それでもいいよ」と好意的に接してくれる人もいる、その人たちを大切にしなさい、と。
というか、まずは自分がそういう(ヘタレわがまま、いいじゃん!そんなとこが大好き♡と思える)人になりなさい、と。
それ、めっちゃ難しい。
けど、がんばる。うん。

てか、「新しかった」って書いたけど、今までにも散々言われてきたことだなあ。
「そのままの自分を受け入れること」。理解するって本当に難しい。

そして、驚いたのは②でした。
これまでの人生のカラーサイクル(時期ごとに色を当てはめたもの)を見ながら先生が、「あなた、自分の色がないのよねえ…」とおっしゃいました。
えー…31年も生きてて自分の色ないとか。。えーーーー……と思った次の瞬間。

「多分、この辺(2〜3歳辺り)で感情止めちゃってるんじゃないかな?」

言葉が出る前に、涙がどわーってなってすごくびっくりした。

ジャスサー女子の〜(前のブログ)の記事で「わたしの社会性が身に付いたのは小学校4年生くらいのころ」「それまでは他者に対する認識がなかった」と書いた記憶があります。
あれを書いた時、わたしは「それまで自分のことしか考えていなかった」「転校して初めて、他の人がいてその人たちに対して感情が動くことを知った」と思っていました。
けど、先生は「自分で感情が動かないようにしたんじゃないの?」と問うたのです。

他者の認識、感情の動き、これを社会性ではなく、自我と捉えるとします。
そうすると、通常子どもの自我って生後半年くらいには芽生え始めて、言葉の発達とともに1歳半頃からより積極的な主張が始まるのだそうです。
そこから少し経ったくらいの時からわたしは何らかの理由で感情の発達を止めた、と考えられる。

自分が感情を表した事で、ひどく誰かに怒られたのかもしれない。
自分が主張した事で、ひどく誰かを悲しませたのかもしれない。
自分らしくある事で、物理的に誰かを傷つけたり、傷つけられたりしたのかもしれない。
わたしは自分の感情がわからない、のかもしれない。正直、それさえもわかんない。

けど、人には感情がある事、対面する人がどんな感情を抱いているかはわかるし、わかりたいと思ってきた。
だから、「かなしい」も「たのしい」も「うれしい」も「すき」も「くやしい」も知っている。
知ってるけど、本当の意味で理解はしていない…のかもしれない。
いや、理解できるんだけどしたくないというか、表に出したくないんだ。






怖いから。


わたしが感情を出すと、身近な人が怒ったり泣いたり叫んだりする気がするから。
そんな事、大人になった今、そうそうないってわかってる。けど、絶対ないとは言いきれない。
大人なんだから、それくらい受け流しなさい。
そう言われても怖いものは怖い。
ヘタレなわがままだし。笑

だから、感情を閉じ込め続けた。
その結果、30歳を越えた今でも自分の感情がわからないのかも。そう仮定するといろいろ辻褄が合うのも事実。

感情がわからないから、「疲れた」がわからなくてオーバワークしてしまう、「まんぞく(満腹)」がわからなくて過食してしまう、のかなー、なんて。

怖いと感じたのかな?と思い当たる経験は、具体的に思いつくものもあるし、曖昧なものもある。普通の人から見たらささやかな光景かもしれない。けれど、わたしにとっては大きなダメージを受けた事柄。今でもおぼろげなのに鮮明に覚えてしまっていること。

それについてどうこうしたいのではない。
過去に遡って当事者に謝ってほしいとか全然思わない。責めたいわけじゃない。非難しているわけじゃない。嫌いになるとか離れたいとか、そういうのでもない。
だけど、ひとつだけ望むことがある。

そういう事があったよね、と認めてほしい。
そういう事があったから、今、怖いって感じることは事実としてあっても不思議ではないよね、と知ってほしい。
悪い思い出だ、とかではなく。事実としてあったよね、と。
懺悔とか解決とか後悔とかいらない。
ただ知って欲しくてこの記事を書いた。

30年近く続けてきた生き方を変えるのは怖い。
周りにはわからない変化でも、わたしにとっては大きな、大きな改革です。
ここ数年で少しずつ現れている、付き合いが悪い、とか、返信が遅い、とか、愛想がない、とか、言葉数が少ない、とか、それも変化の1つだと思う。
身近であればそれだけ、変化を感じると思う。
そして、わたしに対して不安や不満を抱くのかもしれない。ごめんなさい。
だけど、わたしはちゃんと自分で立ちたくて、今はその為に足掻いている途中で、だから誰が悪いとかじゃないんです。言葉とか寄り添ってとか要らなくて、ただ…ただ、そのままで居ることを認めて欲しいんです。

前述の通り、わたくしはヘタレなので、直接言う勇気などございません。
なのでここの場を利用させていただきました。
面倒臭くてごめんなさい。
大人になりきれなくてごめんなさい。
器用に生きられなくてごめんなさい。
めんどくさヘタレわがままっ子ですが、今後もお付き合いいただける方が少しでもいたら嬉しい。

未熟なアラサーも、そこそこ働いて、毎日なんとか生きてます。
どうかあなたも、あなたの人生を楽しんでください。それぞれの足で立って、笑ったり泣いたり、たまに寄り添ったり、慰め合ったり。
そうやって、一緒に生きていきたいです。

おわり。

自分を大切にする方法はそれぞれ 〜転職から半年たっての考察/後編〜

こんばんは、さきこです。

駅ナカの本屋さんで朝から店員さんが三月のライオン新刊の呼び込みをしていたので思わず購入したのですが、疲れすぎて読む気になれないっていう。今週は何やら忙しい。明日でひと段落、乗り切ろう。

さて、子どもと関わる仕事がしたい、と昨日書きましたが、なんで子どもなんだろう?と改めて考えたら、別に「子どもだから」じゃないのかも、という答えが出ました。
というか、わたしは彼らと「大人と子ども」という関係で接している訳じゃないな、と気付きました。

少し遠回りして話します。
昨日のブログで書いた「知識や知恵を習得する順番が、体験→体感→理解」ということ。これって非常に非効率なんです。
実際に身体を動かす前に頭が少しでも働く人なら「あー、これすごい疲れる(苦手な)やつだ、やめよっかなー(少し手え抜こうかなー)」と思う事にも「とりあえず全力で体験!」ってなるんですよね。
いろんな経験を経て、実行前に少し考える時間を持つ意識はできるようになったけど、今でもその傾向は強くて、だからすごく生きづらさを感じることが多かった。
毎日のように傷付くし、感情の振れ幅が大きくて自分自身も苦しいし、自分のアップダウンで周りを巻き込んでしまっている(と感じる)ことでまた落ち込むし。
そんな自分の特性に対して、無闇に壁にぶつかって、力の限りで行動して、いっぱい泣いて、悩んで、落ち込んで、それでも、と這い上がっていくしか、とにかく動くしか、わたしは方法を知らなかった。
そうしてアラサーになった今、やっとなんとか適度に生きる術を身につけられ始めています。

体験→体感→理解が一番知識や知恵を習得しやすい。それは間違ってないです。間違ってないけど、疲れるのも確か。けど、ちゃんと得るにはそれしかないんだよなあ、わたし…と考えてふと思う。

生きてく上で、全ての物事に対して知識や知恵を得なければいけないわけでもないよなー、と。

…あ、そっか、自分にとって必要なものに対してだけ行えばいいのか!(今更)

そう思えてからだいぶ楽になりました。
今更と思えるこの取捨選択が出来るようになったのは、本当にごく最近です。

で、子ども云々の話に戻るんですけど。
子ども、というか、過去(つい最近までだけど)の自分に似た人の手助けがしたいなあ、というのが始まりなんですよね。だから、

・真面目すぎて
・ピュアすぎて
・がんばりすぎちゃう

そんな人たちに関わって生きたいなあ、と。そして、できればその人がご機嫌に生きられるこれからの時間が長いといいな。
その考えから「今、生きづらい子どもたち」に辿り着いたのだと思います。

平井堅の歌にこんな言葉があります。

“何の取り柄も無いからさ
淋しそうに君は少し笑った
諦めたものを数えて  その声は小さくなった
あぁ  その胸の隅っこに
ふてくされた希望を隠してるなら
そいつと手を組んで  あの青空まで
一緒に飛ばそうよ”
平井堅「君の鼓動は君にしか鳴らせない」

子どもたちが時々言うんです。
「できないからやりたくない」
「自分はバカだから」
「どうせそう思ってるんでしょ」
ちいさな身体で、何をたくさん諦めてきたんだろう。他人と自分を比較して、比較されて、どれだけ苦しかったろう、悔しかったろう。
それでも、まだ、ふてくされていても希望があるのなら、まだ、大人を信じてやってもいいかなって思ってくれるなら、いや、思ってくれるようにアプローチしていきたい。

自分で書いていても綺麗事だと思う。
彼らにとったら迷惑な話かもしれない。
わたしのエゴだと思う。
だから、押し付けない。
だけど、ここにいたい。
いられるだけの努力をしたい。

“意地や恥ずかしさに負けないで
心で正面から向き合えるよ
僕らを結ぶリボンは  解けないわけじゃない
結んできたんだ

君の勇気を  僕がみれば  星だ
並べても同じでありたい
あぁ  ここはどこなんだろうね
どこに行くんだろうね  迷子じゃないんだ”
BUMP OF CHICKEN「リボン」

どんなにささやかでもちっぽけだと思われる事でも、勇気を出した行動に気付きたい。一緒だねって同じ目線で立っていたい。

転職して半年。なかなかいいところに来たじゃないか、と思う。

自分を大切にする方法はそれぞれ 〜転職から半年たっての考察/中編〜

こんばんは、さきこです。

朝から雨だわ、めざましテレビの占いで最下位だわでどんよりな感じでしたが、スタバのお兄さんに風邪の心配をしてもらってほっこりとしました。ささやかな優しさって、いいですよね。

さて、昨日書けなかった「五感セラピー」について。
名前の通り、みる、きく、かおる、さわる、あじわう、の五感を使ってセラピーを行うもののことです。
ざっくり言うと、カウンセリングを受けて、自分が一番今必要としている香りの中で、音楽を聴きながら、さわってもらう、感じです。
あじわう、ないじゃん!とか指摘受けそうですけど、まあ、それはそれで。五感セラピーの詳細はちょっとここでは割愛します。

施術を受けた後、セラピストさんにおうちで出来るケアを教えてもらいました。
それは、「皮膚の感度をあげましょう」というもの。具体的には「とりあえず足をさわる」でした。何故足なのか、今のわたしの状態なども説明いただき、すごくしっくりくるものでした。
けど、「しっくり」は今まで散々してきた訳で、結局は「続けられるか」どうか、というかまず、「続けたいか」どうか、要はやってて「明日もやりたい!」と思えるかどうか、です。

早速お家に帰って、とりあえず足をさわる。テレビ見ながらさわる。スマホいじりながらさわる。寝る前にさわる。

少し脱線しますが、わたしびっくりするくらいの冷え性なので、もう今の時期から足先冷たいんですよ。
でね、さわった瞬間はやっぱ冷たくて。しばらくさわってても、まだ冷たくて。というか、割とずっと足先は冷たいままなんですけどね。でも、足先で手のひらのあったかさを感じるんですよね。
あったかいなあ、って。
そうすると、ちょっと心が緩むんです。で、心が緩むとなんか愛が溢れるんですよね。
あったかいなあ、って愛を感じる足先と、あたためてあげたいなあ、って愛を注ごうとする手のひらと、あったかい気持ちがわたしの中で循環するというか。
あー、これか、今まで聞いてきた「自分を愛してあげましょう」ってやつは、って理解できたんです。

実行して、実感して、理解する。
これがわたしの、知識や知恵を習得する順番なのだなあ、と改めて思いました。
まず頭で理解してそれから実行したい、という人もいると思います。組み立て式家具とか説明書読んでから組み立てるタイプね。説明書見ながら組み立てたい、同時型の人もいると思います。それは、人それぞれで、良い悪いではなくて。

思い立ったらすぐ転職!だったり、北海道行っちゃったりを見ている友人から以前「あなたは全部やってみたい人なんだね」と言われたことがあります。
あ、まさにその通りだ、って。
企画職から営業に転職した時は、少なからず一緒に仕事をしていた営業さんの大変さを理解したいからだったところもあったし。

とはいえ、まだ2〜3日しか実行してないからなんとも言えんけど。

それでも、自分が理解しやすい方法に出会えたのは大きい。自分が何かを理解したいときに、最善な方法は何か知っているのはとても大切なことだと思うのです。

そんなブレブレな半年間でしたが、唯一ブレず、むしろ強く思うようになったことが1つあります。

それは、子どもと関わる仕事がしたい、ということ。

どんなに気持ちが落ちていても、それこそ今までの会社だったら休むくらいの時でも(メンタル面で。風邪は別です)会社に行きたい、と思った。彼らに会いたいと思った。
これってすごいなって。そんな驚きを明日は思う存分書こうと思います。

自分を大切にする方法はそれぞれ 〜転職から半年たっての考察/前編〜

こんばんは、さきこです。

『ジャスサー女子のジョブさがし』から早半年。みなさん、お元気ですか?わたしはかれこれ3週間くらい風邪です。しんどい。

さて、4度目の転職活動を経て現在の会社に入り、半年が経ちました。
その間にも心の振り幅は大きくて、結局どこ行ってもおんなじかわたし…と感じることも多かったです。以下、揺すぶられた結果の行動をまとめます。

・資格を取らなければ!という衝動に駆られて、会社を辞めて資格を取ろうと考える
・資格を取らなければ!という衝動に駆られて、通信制の大学に通う
・知識や経験補填のために、目についた講座やワークショップに参加する
・知識や経験補填のために、やたらと本を買う
・知識や経験補填のために、スマホ依存症かと思うほどずっとスマホで情報をあさる
・何かしたくて講演会を企画し、実行するが手に負えず中止する

わかりやすく、経験の浅さや実績・資格のなさ
を気にしています。そしてむやみやたらと行動する。そうしていないと落ち着かないから。
要は自信がなかったんですよね。未経験で最初から自信満々のが危なそうですけどね。
それでも、やっぱり「先生」と呼ばれて、そういう目で見られることに対して「ちゃんとしなくちゃ…!」という強い正義感・責任感が生まれていたのだと思います。
今、書き出して見て初めてちゃんと認識したけど。

で、結果どうなるかと言うと、余裕がなくなるんですよね。で、それを隠そうと極端にいい子になったり明るくなったり。でも、それってやっぱり続いて3ヶ月なんですよ。
(以前お世話になったクリニックの先生から教えて頂いたのですが、人がストレスに耐えられるのは長くて3ヶ月なんだそうです。)

カラ元気が続かなくなるとどうなるか。
わたしの場合はまず食べ物に走ります。
それから身内に当たる、というか最低限以上の人間関係を断つので、オフの時に関わらざるおえない人に当たってしまうのです。わたしの振る舞いに傷付いている相手の顔を見て、それもまたストレスになってさらに情緒不安定になり、食に走り…の無限ループ。
なので一人暮らし願望が異様に高まりました。

このままじゃまずい…。
そう思ったわたしは、さらに行動します。自分を落ち着けるために、セルフメディケーション的な情報を探したり、本を読んだり、セミナーに行ったり、星占いに頼ったり、知り合いに話を聞いてもらったり。

そこで再三言われるたが「自分を大切にしてあげましょう」でした。
自分自身と向き合いましょう。自分そのままを愛してあげましょう。
自分へのアプローチ方法は様々です。わたしが出会ったものは以下のようなもの。

・ヨガ
・内観、瞑想
・万華鏡セラピー
・身体と声を使ったセッション
・呼吸法
・食改善
・月の満ち欠けについて学ぶ

…なんか、すごい偏りが。
そんな傍ら、ホリエモンの本読んで感銘を受けたりとか、まあ、なんか雑多です。とりあえず目につくものはやってみる。そんな性格のわたしです。

いろいろやってみて、結果は「良いものだってわかるけど長続きしない」でした。
わかってるけど、続けられない。
まあ、要はほんとのほんとではわかってない。
けれど、「良いものだ」と認識している分、それを続けられない自分に嫌気がさし、自分を情けなく思い、苛立ちを覚え、そしてストレスは貯まっていく、と。
なんという悪循環。

そんな中、先日「五感セラピー」というものを受けてきました。
これがね、とってもよかったよって話を書こうと思って書き始めたのですが、前置きで疲れちゃったのでまた明日。
いい加減しっかり風邪を治したい。季節の変わり目、みなさまもお気をつけて〜。

迎えてくれる人がいること

週の頭からから体調を崩していまして。
風邪で2日間会社を休む、という初めての経験をしました。今もまだ鼻声で、薬が手放せない状態。
なので、週末はおうちでゆっくり、休養が必要だったと思います。
















でも。




私、今、下田にいます。
レンタカー借りて、1人で、4時間弱かけて来ちゃいました。笑


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結果はね、もう、さいこーです。
ラストサマーを満喫です。



今回は、娘のように可愛がってくれているご夫婦がペンションを閉めて名古屋に帰るとのことで、その前に、と来ました。
都合が合う日がここしかなかったんだけど、奇しくも下田の一大イベント「Big Shawer」の日で。
昨日は昼間っからビール飲んで、海辺お散歩して、夜にはお好み焼きパーティして…


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さいこーかよ。








更には最近移住されてきた素敵なご夫婦と出会えて色々お話聞けたり、近所のペンションのママのところにふらっとお邪魔したらお茶に付き合ってくださるし。






さいこーかよ、ほんと。




週の頭、体調も悪いし、気持ちも不安定で、「あーあ、また逆戻りか。結局こうなるのね…」なんてマイナス思考も少しずーつ浮上して来ていて。
今、もう、ほんと多幸感でいっぱい。



下田の母には「太ったね!笑」と言われたけどね。
それでも変わりなく「いらっしゃい」と迎えてくれる人がいる。
あーーーー、しあわせだなあ。




見切り発車ばかりの人生にも、思いがけないギフトがあるものです。



そして、旅の最後に事故って、今、人生初の現場検証待ちです。笑
果たして帰れるのか!?笑
お腹すいたよー

大きい仕事と、小さい仕事

数年前にデッサン教室に通っていた。

辞めてからもう、随分たつからデッサンの描き方はすっかり忘れてしまったけれど、先生から貰った言葉は残っている。

その一つが「大きい仕事と、小さい仕事」だ。
大きい仕事は、キャンバスに大体のあたりをつける作業のこと。全体を見て、バランスや濃淡を決める。
小さい仕事は、キャンバス内の一部に目を向けて、モチーフの質感や立体感などを描き込んでいく作業のこと。
この2つの仕事を繰り返し行っていくことで、バランスのとれた美しいデッサンになる。どちらかの作業に偏ってはいけない。行ったり来たりする必要がある。
大きい仕事ばかりしていると、大枠を撫でるだけで確信に切り込めない、なんともぼんやりしたデッサンになる。
小さい仕事が多くなると、その部分しか見れなくなって、細かい部分の修正に次ぐ修正で、気付いた時にはアンバランスなデッサンになる。

この原理はいろんなところに使える。
仕事だったら、目先の業務ばかりに追われていて、数年後のビジョンが描けずにいつまでたっても成長できず、逆に衰退するか限界がくる。
恋愛であれば、昨日今日のLINE通知ばかり気にしてしまい、相手の愛情を疑ったりして勝手に疲れて人生の伴侶を失うかもしれない。

行き詰まった時、わたしはこの言葉を思い出して、自分のパワーバランスを見返したりする。
こんな素敵な言葉をくれた先生に感謝だし、何よりずっと絵を描くことをやめなかった自分に(そして続けさせてくれた両親にも)感謝です。

小さい頃から絵画教室に通わせてもらい、なんだかんだでゆるりと付き合いのある「絵を描くこと」。特別うまいわけではない。それで食べていきたいと若い頃一瞬思ったけど、そこまで没頭するでもない。
要は「無駄なこと」として切り捨てられるものの一つです。
だけど、それを続けていたおかげで、壁にぶち当たった時に自分に戻ってこれる言葉を得た。

子どもたちと接する中で、学校の勉強なんてやったって無駄!絵なんて時間の無駄だよ、描きたくない!(絵日記書いてる時)と言われることがある。
それも、一理ある。
平方根の整数部分の計算なんて社会に出てから使ったことないし、「ありおりはべりいまそかり」はもはや呪文だ。
だけど、ね。何が君たちのこの先を助けてくれるかなんてわからないからさ、大人はとりあえずは提示するんだよ。

世の中にはいろんな人がいるから、わたしが好きなお絵描きがこの世からなくなればいいのにって思う人もいるだろうし、わたしが理解できない数式の定理を美しいと感じる人もいる。

君がどうなのか、君自身もきっとまだわかってないでしょう?

わたし自身も最近ようやく、こっちかなあと思えることが多くなってきたくらいです。
だからね、文句言いたくなる気持ちもわかるけど、まずはちょっとだけでいいからやってみて欲しい、なんでも。
学校の授業についていけなくてもいい。でも、教科書はチラ見してみてよ。少しでも不思議だな、とか、なんだこれ?とか思ったら答えてくれそうな大人に聞いてほしい。完璧な答えは出せないかもしれないけど、一緒に考えてくれるはず。
いろんなことを知ってみようとすること、間違いでもいいから自分の頭で考えてみること。
そうすると、いつしか自分の興味が見えてくる。おもしろい、たのしい、と思えることができてくる。
その先の未来には、同じ興味を持った人と、同じ言語で話せる、考えあえる嬉しさがある、とわたしは思う。というか、わたしはあったよ。

いろんな状況の中で、子どもが諦めてしまう前に、諦めてしまった後でもまた戻れるように、サポートできる大人でありたいな、と思います。

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(最近ハマっているハライチの岩井さん)

家族だからって分かり合えなくていい

わたしと父は考え方がけっこう違う。

わたしは感覚的な考え方で生きていて、父は論理的な考え方が好きなようだ。

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横浜トリエンナーレの展示。なんとなく家族っぽかったので)


ちいさい頃、父に遊んでもらった記憶があまりない。写真では残っているので単に忘れているだけだと思う。
一般的な基準より背が高く、仕事に邁進する父がわたしは怖かった。
と、いうよりあまり家にいないので、どう接していいのかわからなかった。
無条件に、そして分かりやすく溢れ出んばかりの愛情をくれた母とは対極の人。
同じ屋根の下にいても、どう接したらいいのか、どうしたら愛してもらえてることを確認できるのか、わからなかった。

大きくなるにつれ、どうやら父は論理的に話すことを好むのだ、と子どもながらに察した。
具体的にはうまく言えないけど、どうやらこういう風に(論理的に)話せば、父はわたしを見てくれるらしい。
とは言えどんなに頑張っても経験や年齢の差には敵わず、いつも途中で嫌になって拗ねていた。

それは、おかしい。それは、違う。それは、間違っている。

そこまで、父が実際に言ったかは覚えていない。けれど、そう言われているとずっと感じていた。
その感情はわたしの外に出ることなく、蓄積されていくうちにこんな風に変わっていった。

お前は、おかしい。お前は、違う。お前は、間違っている。

かなしかった。さみしかった。
けど、自分の気持ちをうまく表現できないわたしは距離を取ったり、知らんぷりしたり、怒ったりすることしかしなかった。

かなしかった。さみしかった。
その裏にあったのは、認めて欲しい、という気持ちだった。
だから社会人になって、意図せず企画の仕事についた時、論理的に話す必要に迫られて鍛えて少しだけ力がついた時、父がわたしの言葉に耳を傾けてくれるのが嬉しかった。
わたしの意見に、時には納得してくれると言い難い充実感があった。
けれど、やはり向き不向きはあるようで、その仕事は長続きしなかった。
論理的に考えられないわけではない。必要性もわかる。けれど、わたしの行動はずっと感覚と直結していたし、感覚で動く方が失敗もたくさんあったけど得るものも多くて、何より楽しかった。

父の考え方が悪いのではない。わたしのとは違うだけ。
優劣ではない。違うだけ。
どっちも必要で、どっちも一緒に存在できる。
考え方なんて違っても、愛してもらえる。
所詮、その人の一部にすぎない。

日本男子は愛情表現が苦手というけれど、父は例に漏れずで、わたしはずっと不安だったのだと思う。愛されたかったのだと思う。

かなしかった。さみしかった。
認めて欲しかった。
愛してほしかった。

この歳になってから、この歳になったから、父と話す機会が増えた。
話していくとわかることもあるし、思い出すこともある。
遊んでくれた思い出、嬉しかった言葉。
それが本当に正しい記憶なのかは曖昧だけど、あたたかい気持ちになるのは確かです。

考え方が違っても、一緒に暮らせる。心配しあえる。労わりあえる。励まし合える。
四六時中ではないけど。嫌な時だってあるけれど。

こう思えるのは、自分の軸がしっかりしつつあるから。
誰になんと言われても、身内にやんや言われても、それでも「これはわたしにとって、とても大事にしたいもの」があるって、何よりもの安心感だな、と思う。
まだ、ブレる時もあるけど。

わたしは、どんなに非効率でも、関わるって決めた人とはちゃんと一人一人と向き合いたい。
そこだけは大事にしたい。

そんな事をふと思った、夏の終わりの金曜夜でした。
明日も仕事だけどね。