アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

自分が安心する、がベース

こんばんは、さきこです。

おとといから週3日勤務が始まりました。
休職後同じ会社に復帰するのも初であれば、短縮業務も初…ドキドキの今週ですが、今日はその前の週のお話をベースに書いてみます。

先週、会社に1日だけ終日出勤しました。
2週間振りの仕事…めっちゃ怖かったです。
なので、いろいろ配慮してもらって、自分でも様々な想定をして臨みました。
それでも思った以上に、というよりかは経験しなければ思いも至らなかったことで辛かったです。
想定していたのは以下のようなこと。

・期間が空いているため、状況理解までに時間がかかる
・その為、要領よく動けない、各業務について以前の倍の時間がかかることを覚悟しよう
・クライアントさんと微妙な距離感が出来てしまうだろう
・そこは仕方がないので、またちょっとずつ信頼関係を築いていこう

実際に働いてみると、想定はしていてもやはり苦い思いはする。けれど、想定できている分、やり過ごすことはできました。
だけど、やり過ごせないくらい1番精神的にやられたのはもっと別のことでした。

自分の負担が周りの方に顕著に表れているのを目の当たりにする。

これが1番辛かった。
でも、じゃあやります!と言えない状況。出来るかもしれないけど、その後崩れてしまっては元も子もない。それは周りも理解してくれていて、やってよ、なんて言わない。むしろ気を遣ってくれて、大丈夫ですよ!と笑顔を向けてくれる。
だけど明らかに多い業務量をこなすその隣で制限してもらったものをする、これはとても辛い状況でした。

帰ってからもやはり引きずってしまって、大丈夫って言ってくれたけど本当はそんな事思っていないんじゃないか、わたしがいない時に何を話してるんだろう、わたしは居るだけで迷惑なんじゃないか、いやでも良いって言ったし、割り切ればいいし、でもわたしだったら理解はできても絶対やだな、いやでも、けど…と負のサイクルに入っていきました。

あ、これ、ダメなやつだ!
あかん!
1人で考えたらあかんやつ!

そう気付いて、かなり勇気を出して休みの日に職場の方に時間をもらい話をすることにしました。
現状ふたりの方と蜜な関わりがあって、話しといってもまあ、それぞれの方とサシでただ飲んでお茶してってだけなんですが。

それでも、普段職場ではじっくり話せない仕事のことや、それぞれの思い、今後自分はどうしていきたいかをお互いに共有できました。
週5日で働くのは難しいこと、その負担がふたりにダイレクトにいくのが見えることへの正直な気持ち、それでも今はここで働きたいこと、できることなら今までと同じようにフラットに意見交換をできる関係でありたいこと。

話し合いだけで何が解決することってあんまりないとわたしは思っています。
話し合った結果行動して初めて結果が出るし、なるべく早く大きな結果を出せることが、特に仕事という場面だと求められがちです。
でも、その行動を起こすために、話し合うってやっぱりすごく大事。
話し合って、お互いのことを共有して、認め合って、そうすると安心する。
うまくいってもいかなくても、この人たちとだったら立ち止まっても良い方向に進んでいけるんじゃないか、というちょっと能天気かもしれない気持ちになる。
そう思える関係性がベースにあると、不思議と仕事のスペックもあがるものです。
現に先週1時間で1〜2件しか書けなかった書類が、今週は2〜3件書けたし。手を抜いていたとかではなくて。安心したから余計なことを考える分のパワーを作業に当てられたんでしょうね。

『安心がベースにあって力を発揮できる』

大人になってから自分がほんとに安心できる場所を得るには、ほんとの部分で話し合うことが必要。ほんとの部分で話すためには、まず自分がどうしたいのか、どう感じているのか、を伝えられるようにならないといけないんだなあ、と思える一件でした。

自分のほんとの部分を他者に伝えるには、

自己分析をし結果を出さねばならぬ、
セルフマネジメントができればならぬ、
完璧な自分の中の答えを出さなければならぬ、

ってことではなくて、

ここまで考えたけどわかんなかった、
こういう事をしてみて結果は出ていないけどもう少し続けてみたいと思っている、
なんか、こう、〇〇って感じなんだよなあ〜

と今の自分のそのまんまを口にできることが必要なんじゃないかな。

自分を殺さないで、だけど相手のことも少しだけ考えて、『わかり合いたいから話してみたい』。
自分ひとりじゃ堂々巡りしちゃうから、あなたの頭を、時間を貸して欲しい。
これはとっても贅沢なわがままであると思う。
それでも、お願いして「いいよ」って言ってくれた相手にまずは甘えてみていいんじゃないだろうか。
話した結果わかりあえなくても、それはやっぱり哀しかったり苦しかったりするけど、腑には落とせる、納得できる。だから、次に進める。

関わる人すべてにする必要なんてない。
それでも、「会社の人にはしない」「プライベートの人にはする」ってカテゴリーで分けちゃうのも勿体ないなって思った。
会社の人でも話したい人には話せばいいし、友だちと呼ばれる関係でも話したくなかったら話さなくてもいい。
話したい人が今のコミュニティにいないなら別のコミュニティで探せばいい。
いろんなところに、いろんな頻度で関わるコミュニティを持ってもいい。
もちろん逆でも。
どっちでもいい。

大切なのは『自分が安心できる場所を、自分が安心できる分だけ確保する』ことなのではないかな。
明確な答えがないからしんどいけど。
それでも、自分の頭を使って、心を使って、身体を使って得た安心は、すごくあったかいものなんだなあって今は思う。

ただ、これ、変動するものなので、これで安泰!とはいかないんだよなあ。
変動しつつも自分の安心を保ちながら、子どもたちには安心できる場所を提供していきたい。
そして、ゆくゆくは自分で居場所を見つけられるようになって欲しいな。

当事者として

こんばんは、さきこです。

最近、日々目まぐるしいのに時間が経つのがゆっくりで小学生的時間感覚で生きている気がしてます。1日は早いのに1週間は遅い、みたいな。

今日からカウンセリングが始まりました。
診断名は神経症、症状は過食嘔吐、になるのかな。
過食症状は高校卒業あたりから始まり、もうかれこれ10年以上の付き合いです。
ちらほらブログで書いたり、知人・友人に話はしていましたが、自分でちゃんと病気なんだなって認められたのはほんとここ数週間のことで。
あ、病気なんだ、そっか、病気なのか、じゃあ治すか、と素直に思えたことに驚いた。
素直に思えたことで、今まで病気だって認めてなかったんだってことに驚いたんですよね。
明らかにおかしいし、自分でどうしようも出来ないのに、何故か「そういうもんだ」って思ってた節があったなあ、と。
そんな風に考え方が変わっていったのは歳月が経ったのもあるけど、ここ1〜2年で関わる人の数や種類が増加したことが大きい気がしている。
多様なコミュニケーションの場って大切。

カウンセリングは毎週決まった時間に先生と小一時間お話をする、というもの。
今までの話を先生の質問に答えながら進めていきます。
うまく言えない気持ちを先生が言葉で補足してくれたり、客観的な見解を示してくれたり。
2年ほど前からお世話になっている方で、都度都度面倒を見てもらっているのである程度信頼関係が築けた状態からのスタート。
どんなことするのかな〜と期待半分、不安半分で行きましたが、初回の感想は「ただただ楽しかった」です。
自分の話を思ったまんま誰かに話す事って結構少なくて。
今は思わないけどちょっと前まで、友達との話でも起承転結がちゃんとあって盛り上がらなければだめ、って思ってたし。そりゃ疲れるわ。

今日は小学校くらいまでの話。
転職期間中にブログでまとめていたこともあり、ある程度自分の中で整理されていたのは大きかった。
一度整理したものを再考しながら話す。その上で他者から質問されて、それにまた答えて、答えている自分の声を聞いて、「そうそう、そう思ったんだ」と再確認して。
自分ひとりで思い出していくよりも、より深く、そして客観的に過去の自分を捉えることが出来ました。

その結果わかったことが、すごく幸せな幼少期であったなあ、ということ。
家族の話が主だったけど、周りの大人たちにたくさん愛されて育った子どもですよ、わたしは。笑

よく、家庭環境が悪いからと言って子どもも悪くなる訳じゃない、という話を聞きます。
これって裏返しも当然あって。
家庭環境が良かったからと言って子どもも良くなる訳じゃない。
環境が子どもの成長に影響を与えるのは事実で、家庭というのは距離が近い分、その影響はより大きくなる。
けど、環境がその子の全てを決めるわけではない。
その子自身の特性、周りの環境、時代、それらが起こるタイミングなど様々な要素が混ざり合って成長してく。

過食症は家庭環境に恵まれなかった人だけがなるわけじゃない。
家庭環境に恵まれていたってなる人もいる。恵まれているはずなのにって余計に自分を責めて悪化していく人もいる。
どんな人でもなる可能性があって、特に「女性は痩せていた方が美しい」とされる現代日本では全ての女性が予備軍と言っても過言ではないと思う。
食べるって三大欲求の一つで、生きることに直結してること。そこがちゃんと機能しないことの苦しさはじわじわと日常を侵食する。

で、何が言いたいかというと、「わたしに振り回されないでね」ということ。
過食嘔吐をすると血糖値が急激に上がり下がりするから情緒の変動が激しくなるし、食べ物が逆流するので身体への負担も大きい。
情緒がどん底の時は考え方がネガティヴに寄るし、自分や身近な人を攻撃してしまったりする。
それをやめたいと思ってカウンセリングを始めた。
でも、まだ始めたばっかりだからうまくいかないこともあるんだ。
だからついていけなくなったら一時避難をして欲しい。少し時間を置くとか、距離を置くとか。
見捨てられたらかなしいけど、まあ、それも仕方ないことなのかもしれない。
…いや、でも、やっぱり寂しいのでがんばるからもう少し見守ってください。

渦中のことだからうまくまとまらないや。
いろいろ書いたけど基本的には元気にやってます(*´-`)

2つの革命とわたしの革命

こんばんは、さきこです。
タイトル、やばないですか。厨二臭ぷんぷんで書きながらニヤニヤしちゃう。
「わたしの革命」ですよ、やばー。

さて、今日はこれと

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これの

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お話です。

まずは「革命のファンファーレ」から。

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(個人的にはカバーを外した装丁がすき)

この本、個人的にはすごくグッときて、内容とご本人の行動がちゃんとリンクしているところも込みですごいなあ、と思い、その思いの丈をAmazonレビュー(初めて書いた!)したのですが「内容が不適切」ということで掲載されませんでした。結構ショックだった。
その内容が以下。

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内容は正直あんまり覚えてないのですが、読後の爽快感というか…元気とちょっとだけ勇気をもらいました。インスタにアップしたら本当にちゃんと反応してくれるし、そういった楽しみ方もできます。1500円でいろいろ楽しめるからわたしはお得だと思いました。
ーーーーーーーーーー

「内容覚えてない」ってレビューじゃないよねw
なので掲載されなかったのかなあ、と。ガイドラインをちゃんと読んでないから憶測ですけどね。
けど、この感想はわたしの正直な気持ちです。

内容とやっている事がしっかりリンクしている。
それを読者に体験させてくれる。
インスタに上げたらちゃんと反応してくれる。

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Amazonレビュー書いてくれたら嬉しいってコメントがあったからレビュー書く気になったよ)

たかが「いいね」一つ。コメントはきっとテンプレだろうし、もしかしたらご本人が対応してないかもしれない。
けど、この地道な作業を西野亮廣という人はずっとしてきている。
ブログ見ればわかるけど、「プペルを売る」覚悟がものすごいあるんだろうってわかる。


もう一つの革命「パーフェクト・レボリューション」は実話を元にした障害者とソープ嬢の恋バナ映画。

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電動車椅子で夜風きるの気持ち良さそうだった「映画.com」より)

内容に元々興味があったのだけれど、元ネタとなった子宮委員長はるさんのブログがFacebookのタイムラインでやたらと流れてくるのでより興味が強くなって観てきた。
観ている間、「普通ってなんだ」「障害ってなんだ」ってずっと思ってた。この映画を作った人たちはどういう答えを出すのかなあって。

今の社会において普通じゃないとされる人が思う普通の行動をすると、普通とされる人からバッシングを受けて、普通じゃない人はすごく普通じゃない行動に出たりする。
そうすると近くにいる普通の人の普通じゃない面が露わになったりして、結果みんな傷付く。
距離が近いほど傷も深い。
傷付くと痛い。傷付くと怖い。だからその原因に普通の人も普通じゃない人も蓋をしようとする。
受けた傷が大きいほど、原因から波紋状に広がる原因になりそうなものまで全部に蓋をする。

でも、傷付いても生きていれば回復する。
時間は掛かるけど、必ず、生き続けていれば。
回復できると前よりちょっと強くなる。前よりちょっと優しくなる。前よりちょっと見える世界が違ってくる。
いたずらに傷付けるのはよくないけど、それが自分を形成するコアなものなら出ちゃうものだし、それは痛いし怖いんだけど結果的により良い未来を掴めるのかもしれない。
大どんでん返し!的なことはないんだけど、最後ちょっとだけ、オセロ1枚分くらいひっくり返るの。そこも素敵。

で、わたしの革命はというと、医師、上司と話し合った結果、週4日勤務から復職することになりました。
当たり前のように感じる流れだけどわたし的にはかなりすごくて。
何故って今までこれが出来なくて転々としていたのです。
それまで同じ条件で働いていたのに自分だけ違う働き方をしながらもそこに所属する、ということがとても難しかった。
会社側の対応ではなく(むしろ有難い事にどの会社を辞める時もわたしが働ける範囲での復職提案をしていただいた。本当に有難い事だ)わたしが受け入れられなかったの。
「こうでなければならない」という気持ちがものすごく強かったから。
正社員なのだから週5日は働くべきだ、みんなが働いているのに休むべきではない、何故わたしはみんなと同じように働けないのだろう、そんな自分はいる価値がない、みたいなネガティヴサイクルでぐるんぐるんしていて。
それを今回、受け入れることができたんです。
なんか、自分の成長を感じた瞬間でした。
他愛もないことだけどね、いや、わたしほんとすごいぞ!えらいぞ!!!

実際働いてみないとなんとも言えないけれど。
それでも、ちゃんと会社と対話をして、自分の希望を伝えて、相手の希望を聞いて落とし所を見つけて。そんな作業がちゃんと出来るようになるとは。
人間、日々成長ですね。

O! MORO LIFE的ハロウィン

こんばんは、さきこです。

ハロウィンナイト、楽しんでいますか?
わたしは先週末、台風襲来の中すでに楽しんだのでいつも通りに過ごしております。
今回はその台風襲来ハロウィンパーティの個人的感想を書こうと思います。

このパーティはO! MORO LIFEプロジェクトという横浜市とstudio-Lが共同して行なっている、それぞれが日常で感じる「バリア(障害)」について考える市民プロジェクトから派生したパーティ。わたしは、今年の2月からゆるゆると参加しています。

基本的には普通の持ち寄りパーティ的なものなのですが「バリア」をテーマとした集まりなので、そこを意識したプログラムがあって。その一つが各テーブル毎に「バリア」を作ってコミュニケーションをとろう!というものでした。
目隠しテーブル、筆談テーブル、そして3本の指しか使っちゃいけないテーブルに別れてパーティを楽しみます。
わたしは、筆談テーブルにいました。その名の通り、喋っちゃダメ、筆談のみ!なテーブルです。

これがね、すごくたのしかったんですよ。
耳の不自由な方も同じテーブルだったのですが、一緒にたのしめてる感があってうれしかった。
あと、言葉を見える化することで話の流れが物理的に見えてより理解しやすかったりとか、「書く」という行為を経ることで「言いたいことを整理する」「どうしたら簡潔に的確に相手に伝わるか考える」ことが「喋る」よりも多くあって頭の体操みたいでそれも心地よかった。
言いたいことがあるときはペンを持つから、この人はこれから何か言おうとしているんだな、ということがよりわかりやすいのもよかったな。
文字だけでなく絵で伝えられるのも良い点でした。
もちろんタイムラグはあるし、言葉よりもすぐに伝えられない分もどかしさもあるけど。
でも、案外若者と親和性があるツールな気もしました。LINEとかTwitterとかデジタル版筆談と言えそう。

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(最初はそれぞれが紙に書いたものを見せ合っていたのだけれど、最終的に大きな紙にみんなで書き込んでいく形になりました)

環境が障害を作る、とはよく聞く話ですが、これもその一例だなあって振り返ってみて思いました。
「耳が不自由な人と話すために筆談する」ってなんかすごく「してあげている感」があって、関係性が上下な印象なんだけど、「筆談ゲームをみんなでたのしむ」ってなると途端に「一緒に遊んでいる感」が強くなって、関係性がフラットになる。
簡潔に伝えようとするとタメ口で書いちゃうし、そういう意味でもフラットになったりします。

何はともあれ、ひとつのコミュニケーションツールとして「筆談」たのしいので是非。

あと、個人的にうれしかったことがもう一つ。
それは、参加者の方のひとりがブログを読んでくれていたこと。
さらっと、見てますよ〜的な他愛もない会話の一部だったんだけれど、うれしかった。
このブログは誰かに何かを届けたい!という思いから書いているわけではないけれど、やっぱり自分が発信したものを誰かが受け取ってくれているってうれしいんだなって改めて感じました。

ハロウィン終了まであと数時間ですが、みなさんもたのしいひと時を〜Happy Halloween🎃

ただ友達になりたかった

こんばんは、さきこです。

メンヘラなタイトルですが意外とそうでもありませんよ。


さて、いろいろ書いているくせに、ただ今人生3度目の休職中でございます。
周りの方(具体的には職場の方と家族)に迷惑を掛けている自負があります。
ごめんなさい。早く…いや、ゆっくりでもちゃんと元気になる…なれる方法を掴みますね。

そんなこんなで有難いことに時間がたっぷりある訳で、今日は江ノ島〜鎌倉界隈をぷらぷらしておりました。
疲れると、とりあえず海に行きます。そんなわたしです。

ぷらぷらするだけなので基本目的はないのですが、目的がなさすぎるのも逆に疲れちゃうもの。とりあえず家を出るときは「海を見ながら朝ごはんでおいしいパンを食べる」を目的にしました。
江ノ島近辺で食べログ総合1位のパン屋さんに(おそらく)一番乗りし(何故ならまだパンが焼けていなかったから!)店主のお兄さんとお母さんの人柄にほっこりし、焼けるまでの待ち時間にファミマのカフェオレ飲んだらお腹いっぱいになってパンは結局食べられずお持ち帰りして、落ち着ける場所を求めて行った稲村ヶ崎の公園は崖崩れのため閉鎖されてて、その麓の防波堤(?)でプロフの撮影らしき事をしている女の子とカメラマンさんの隣で、ただほんやりと海と江ノ島とうっすら見える富士山を眺めておりました。

たっぷり太陽と波音を補給して、さて、この後どうしよう。
そういえば〜とずっと行きたかったごはん屋さんのことを思い出し、やってるか見てみたらやってそうだし空きもありそう…で、お電話したら大丈夫との事でそこからぷらぷら鎌倉までお散歩。

ずっと気になっていたお店はとても居心地がよくて、じんわりとあったかくて、今日行ってよかったなあ、という感じでした。
超おしゃれ!とか、すごい素敵!!インスタ映え!!!!的なお店ではないけれど(いや、インスタ映えはするか)また行きたいなあ、と思えるお店でした。

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(縄文定食1200円。ごはんがほんとおいしい。わたし的には真ん中のこんにゃくと何かの煮物的なものがびっくりするくらいおいしかった)

店主のご夫婦のまあるい雰囲気がとても心地よくて、そして今日は息子さん(小学生かな?)もいて、この子が超元気で、いや、ほんと好き。おねえさんは君と仲良くなりたいよ、ほんと。
ちょうどお店の一角で彼の展示をしていたのでお邪魔しました。絵とか紙粘土で作った作品がテーマ毎に展示されていました。

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(彼の作品。蛇とコブラ。普通にかっこいい)

自分の作品を見られるのが嬉しいのか(そりゃそうか)見ている最中や感想を書いている時、こちらが気になって周りをうろちょろ(でも話しかけてはこないw)。
どっか行ったな〜と思ったら棒の先に葉っぱの付いた枝をさして現れてバサバサとお祓い的な事をしてくれる。
「それ何?」と聞いたら「さかき!」だって。マジでお祓いやん。笑
またどっか行った〜と思ったら、今度は榊の葉を来場者に配り出すという…ご利益ありそう。笑
有難く頂戴してまいりましたよ。

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(彼の書いた絵と榊の葉はお部屋のインテリアになりました)

で、タイトルになるのですが彼を見ていて、わたしは子どもとどんな接し方…というかどんな関係性でありたいのかな、と考えた時、「ああ、わたしは友達になりたいんだなあ」って思いました。
友達と一緒にいろんな事を面白がりたい、笑いたい、楽しみたい。困っているなら一緒に考えたいし力になりたい。
ただ、それだけなんだなあ、と。

とは言え、わたしはもう子どもではない年齢なので、彼らよりも社会的にも経験的にも金銭的にもできることがあったりする。
その辺りが今後の生き方のヒントになりそうだなあ、と思った1日でした。

今日感じられたのはここまで。
明日は雨らしいのでひきこもりする予定。
天気で行動決められるなんてカメハメハ大王みたいで贅沢(*´-`)♡

ぐるぐるループから抜け出したい

こんばんは、さきこです。
急に寒くなりましたね。わたしはピーク時よりも10㎏強増えた脂肪、起毛パーカー、ウィンドブレーカー、ネックウォーマーという出で立ちで出社し、少し汗ばみました。

さて、前回の記事で書いた「五感セラピー」。
思うところがあって、ちゃんと勉強することにしました。思うところってご大層な前置きをしましたが、単純にセルフメンテナンスをちゃんとできるようになりたいと思ったからです。
「自分を愛するってことがわかった!」とか書いていたけど、ひとりで継続するのは難しく…結局それな!って感じだけど。
それでも、あの感覚は必要な時に自己再現できたほうがいい気がして一念発起しました。何度目だ、と突っ込まれそうだけど、いいの。

先日、1回目の授業がありました。
一番初めは先生と一対一で自己分析をします。
心理学的なもの、カラーセラピー的なものを組み合わせた課題をいくつか行いました。
その中で印象的だったのが以下の2点。

①わたしは、ヘタレわがままであること
②幼児期のどこかで感情の発達を止めた可能性があること

①は、まあ、そうだよね…的な。
思う節はたくさんあるし、メンタルクリニックで受けたテストの結果とも一致してる。
メンタルクリニックでの結果は、母性が満点で父性が人並み以下、というもの。父性=責任感を持って行動すること。その値が低いので、責任感を持って行動できない口ばっかりのヘタレ、ということになる)
ただ、新しかったのは、短所を補う必要はない、ときっぱり言われたこと。
かといって長所で戦うわけでもない。短所を突き詰めて強みにするのがベスト、なのだそう。

つまり、ヘタレでわがままな自分を前面に押し出して生きていくのがベスト、ということ。
















いや、それめっちゃ嫌われるやーーーん。





けど、それがいいんだって。
嫌う人もいる。けど、確実に「それでもいいよ」と好意的に接してくれる人もいる、その人たちを大切にしなさい、と。
というか、まずは自分がそういう(ヘタレわがまま、いいじゃん!そんなとこが大好き♡と思える)人になりなさい、と。
それ、めっちゃ難しい。
けど、がんばる。うん。

てか、「新しかった」って書いたけど、今までにも散々言われてきたことだなあ。
「そのままの自分を受け入れること」。理解するって本当に難しい。

そして、驚いたのは②でした。
これまでの人生のカラーサイクル(時期ごとに色を当てはめたもの)を見ながら先生が、「あなた、自分の色がないのよねえ…」とおっしゃいました。
えー…31年も生きてて自分の色ないとか。。えーーーー……と思った次の瞬間。

「多分、この辺(2〜3歳辺り)で感情止めちゃってるんじゃないかな?」

言葉が出る前に、涙がどわーってなってすごくびっくりした。

ジャスサー女子の〜(前のブログ)の記事で「わたしの社会性が身に付いたのは小学校4年生くらいのころ」「それまでは他者に対する認識がなかった」と書いた記憶があります。
あれを書いた時、わたしは「それまで自分のことしか考えていなかった」「転校して初めて、他の人がいてその人たちに対して感情が動くことを知った」と思っていました。
けど、先生は「自分で感情が動かないようにしたんじゃないの?」と問うたのです。

他者の認識、感情の動き、これを社会性ではなく、自我と捉えるとします。
そうすると、通常子どもの自我って生後半年くらいには芽生え始めて、言葉の発達とともに1歳半頃からより積極的な主張が始まるのだそうです。
そこから少し経ったくらいの時からわたしは何らかの理由で感情の発達を止めた、と考えられる。

自分が感情を表した事で、ひどく誰かに怒られたのかもしれない。
自分が主張した事で、ひどく誰かを悲しませたのかもしれない。
自分らしくある事で、物理的に誰かを傷つけたり、傷つけられたりしたのかもしれない。
わたしは自分の感情がわからない、のかもしれない。正直、それさえもわかんない。

けど、人には感情がある事、対面する人がどんな感情を抱いているかはわかるし、わかりたいと思ってきた。
だから、「かなしい」も「たのしい」も「うれしい」も「すき」も「くやしい」も知っている。
知ってるけど、本当の意味で理解はしていない…のかもしれない。
いや、理解できるんだけどしたくないというか、表に出したくないんだ。






怖いから。


わたしが感情を出すと、身近な人が怒ったり泣いたり叫んだりする気がするから。
そんな事、大人になった今、そうそうないってわかってる。けど、絶対ないとは言いきれない。
大人なんだから、それくらい受け流しなさい。
そう言われても怖いものは怖い。
ヘタレなわがままだし。笑

だから、感情を閉じ込め続けた。
その結果、30歳を越えた今でも自分の感情がわからないのかも。そう仮定するといろいろ辻褄が合うのも事実。

感情がわからないから、「疲れた」がわからなくてオーバワークしてしまう、「まんぞく(満腹)」がわからなくて過食してしまう、のかなー、なんて。

怖いと感じたのかな?と思い当たる経験は、具体的に思いつくものもあるし、曖昧なものもある。普通の人から見たらささやかな光景かもしれない。けれど、わたしにとっては大きなダメージを受けた事柄。今でもおぼろげなのに鮮明に覚えてしまっていること。

それについてどうこうしたいのではない。
過去に遡って当事者に謝ってほしいとか全然思わない。責めたいわけじゃない。非難しているわけじゃない。嫌いになるとか離れたいとか、そういうのでもない。
だけど、ひとつだけ望むことがある。

そういう事があったよね、と認めてほしい。
そういう事があったから、今、怖いって感じることは事実としてあっても不思議ではないよね、と知ってほしい。
悪い思い出だ、とかではなく。事実としてあったよね、と。
懺悔とか解決とか後悔とかいらない。
ただ知って欲しくてこの記事を書いた。

30年近く続けてきた生き方を変えるのは怖い。
周りにはわからない変化でも、わたしにとっては大きな、大きな改革です。
ここ数年で少しずつ現れている、付き合いが悪い、とか、返信が遅い、とか、愛想がない、とか、言葉数が少ない、とか、それも変化の1つだと思う。
身近であればそれだけ、変化を感じると思う。
そして、わたしに対して不安や不満を抱くのかもしれない。ごめんなさい。
だけど、わたしはちゃんと自分で立ちたくて、今はその為に足掻いている途中で、だから誰が悪いとかじゃないんです。言葉とか寄り添ってとか要らなくて、ただ…ただ、そのままで居ることを認めて欲しいんです。

前述の通り、わたくしはヘタレなので、直接言う勇気などございません。
なのでここの場を利用させていただきました。
面倒臭くてごめんなさい。
大人になりきれなくてごめんなさい。
器用に生きられなくてごめんなさい。
めんどくさヘタレわがままっ子ですが、今後もお付き合いいただける方が少しでもいたら嬉しい。

未熟なアラサーも、そこそこ働いて、毎日なんとか生きてます。
どうかあなたも、あなたの人生を楽しんでください。それぞれの足で立って、笑ったり泣いたり、たまに寄り添ったり、慰め合ったり。
そうやって、一緒に生きていきたいです。

おわり。

自分を大切にする方法はそれぞれ 〜転職から半年たっての考察/後編〜

こんばんは、さきこです。

駅ナカの本屋さんで朝から店員さんが三月のライオン新刊の呼び込みをしていたので思わず購入したのですが、疲れすぎて読む気になれないっていう。今週は何やら忙しい。明日でひと段落、乗り切ろう。

さて、子どもと関わる仕事がしたい、と昨日書きましたが、なんで子どもなんだろう?と改めて考えたら、別に「子どもだから」じゃないのかも、という答えが出ました。
というか、わたしは彼らと「大人と子ども」という関係で接している訳じゃないな、と気付きました。

少し遠回りして話します。
昨日のブログで書いた「知識や知恵を習得する順番が、体験→体感→理解」ということ。これって非常に非効率なんです。
実際に身体を動かす前に頭が少しでも働く人なら「あー、これすごい疲れる(苦手な)やつだ、やめよっかなー(少し手え抜こうかなー)」と思う事にも「とりあえず全力で体験!」ってなるんですよね。
いろんな経験を経て、実行前に少し考える時間を持つ意識はできるようになったけど、今でもその傾向は強くて、だからすごく生きづらさを感じることが多かった。
毎日のように傷付くし、感情の振れ幅が大きくて自分自身も苦しいし、自分のアップダウンで周りを巻き込んでしまっている(と感じる)ことでまた落ち込むし。
そんな自分の特性に対して、無闇に壁にぶつかって、力の限りで行動して、いっぱい泣いて、悩んで、落ち込んで、それでも、と這い上がっていくしか、とにかく動くしか、わたしは方法を知らなかった。
そうしてアラサーになった今、やっとなんとか適度に生きる術を身につけられ始めています。

体験→体感→理解が一番知識や知恵を習得しやすい。それは間違ってないです。間違ってないけど、疲れるのも確か。けど、ちゃんと得るにはそれしかないんだよなあ、わたし…と考えてふと思う。

生きてく上で、全ての物事に対して知識や知恵を得なければいけないわけでもないよなー、と。

…あ、そっか、自分にとって必要なものに対してだけ行えばいいのか!(今更)

そう思えてからだいぶ楽になりました。
今更と思えるこの取捨選択が出来るようになったのは、本当にごく最近です。

で、子ども云々の話に戻るんですけど。
子ども、というか、過去(つい最近までだけど)の自分に似た人の手助けがしたいなあ、というのが始まりなんですよね。だから、

・真面目すぎて
・ピュアすぎて
・がんばりすぎちゃう

そんな人たちに関わって生きたいなあ、と。そして、できればその人がご機嫌に生きられるこれからの時間が長いといいな。
その考えから「今、生きづらい子どもたち」に辿り着いたのだと思います。

平井堅の歌にこんな言葉があります。

“何の取り柄も無いからさ
淋しそうに君は少し笑った
諦めたものを数えて  その声は小さくなった
あぁ  その胸の隅っこに
ふてくされた希望を隠してるなら
そいつと手を組んで  あの青空まで
一緒に飛ばそうよ”
平井堅「君の鼓動は君にしか鳴らせない」

子どもたちが時々言うんです。
「できないからやりたくない」
「自分はバカだから」
「どうせそう思ってるんでしょ」
ちいさな身体で、何をたくさん諦めてきたんだろう。他人と自分を比較して、比較されて、どれだけ苦しかったろう、悔しかったろう。
それでも、まだ、ふてくされていても希望があるのなら、まだ、大人を信じてやってもいいかなって思ってくれるなら、いや、思ってくれるようにアプローチしていきたい。

自分で書いていても綺麗事だと思う。
彼らにとったら迷惑な話かもしれない。
わたしのエゴだと思う。
だから、押し付けない。
だけど、ここにいたい。
いられるだけの努力をしたい。

“意地や恥ずかしさに負けないで
心で正面から向き合えるよ
僕らを結ぶリボンは  解けないわけじゃない
結んできたんだ

君の勇気を  僕がみれば  星だ
並べても同じでありたい
あぁ  ここはどこなんだろうね
どこに行くんだろうね  迷子じゃないんだ”
BUMP OF CHICKEN「リボン」

どんなにささやかでもちっぽけだと思われる事でも、勇気を出した行動に気付きたい。一緒だねって同じ目線で立っていたい。

転職して半年。なかなかいいところに来たじゃないか、と思う。