アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

イライラを見つめる

ここ数日、ずっとイライラしていました。

些細なことが気になって、それこそドアの閉め方とか、お願い事の仕方とか、椅子の座り方だとか、家族にも知り合いにも職場の人にも通勤ラッシュの混雑にも横断歩道で止まってくれない車にも、とりあえず何にでもイライライライラしてました。

きっと、はじめての事ではないのだろうけど、イライラしている自分を「イライラしてるなあ」と客観的に見れたのは、はじめてだったと思います。

今まではどうにかして自分の中でイライラを抑え込むようにしていました。(ただ、うまくいかず家族には八つ当たってました。)
そして極たまに、相手を徹底的に攻撃する、という対処法をとっていました。

これ、どっちもすごく傷付くんです。
自己処理と言っても大体は過食嘔吐に落ち着くし、相手を攻撃するのって最終的に自分に返ってくるし。

なので、今回はどちらも採用せず、とりあえず出てくる不満を一個ずつ観察してみました。
とか、格好良く言ってますが、どっちつかずで流れた結果、こうなっただけなのですが。

消化不良だった気持ちがどんどん出てきて、その時を思い出して心の中でめっちゃ相手を罵倒してみたり、理詰めで責め立ててみたり。なんか、相当怒ってた。

どうしてわかってくれないの!
どうせ、わかんないよ!
決めつけないでよ!

みたいな。
いや、めんどくさいな、私ってなった。笑

イライラが過ぎ去った今にしてみれば、あーそれ嫌だったんだねえ、とか、まだ思い返すくらい嫌なことだったのかー、と微笑ましいんだけれど、渦中の時はしんどかったなあ。

けど、抜けれた。
抜けれるんだ、と、普通に考えたら当たり前の事をちゃんと実感して、ちょっと安心した。
どんな状況であれ、一生続くことはないんだ。
これって、すごい安心感だと思う。


とはいえ、あまりにも急にやってくるので、先の見通しが立てにくいのが困る。
今回も随分前からの約束をごめんなさいしてしまったし。

まあ、困ると言ってもどうしようもないんだけれど。出来ることは、なるべく無理な予定を立てないことと、その都度謝ることくらい。
幸い、年々、自分の状況を適切に伝えられるようになってきているので、みんなわかってくれることが多い。
勇気を出して言葉で伝えることを本当にちょっとずつだけれどしてきた結果と、あとは世の中的に精神面の体調不良が一般化しているのも大きいのかな。

糸掛曼荼羅という、何にもしたくないけど何かしたいときのおもちゃも見つけたし。

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(糸の掛け数だけじゃなくて、ピンの数によっても表情が変わる。いろいろ試してみたいところ)

なので、あまり先々の予定が立てにくい私です。けれど、自分のペースでそれなりに楽しくやっています。おちこんだりもしたけれど、わたしは元気です。

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(らくがきとちょっと気取った写真はインスタでやってます。覗いてもらえるとうれしい。https://www.instagram.com/konosakiko/

さあ、明日明後日は仕事だー。
適度にやるぞー。

どんなに頑張ったって、どうせわかってくれない

こんばんは、さきこです。

ブログにする気はなかったのですが、書き出したら文字数多くなっちゃったのでこちらに。


最近、いろいろ揺らいでいて。

今までだったら「はい、おしまい!次!」だったのですが、今回はちゃんと見つめよう、と次に進みたくなる衝動を抑えて揺らいだ結果の自分を観察しています。

観察していくと、かなしくなって、苦しくなって、そしたら怒りが出てきて、最終的に「どんなに頑張ったって、どうせこうなる、わかってくれない」という言葉が出てきました。


「え、わたし、頑張ってたの…?」と衝撃を受けた。


自分では頑張っていないつもりだった。頑張っている部分も確かにあったけど、そこは自覚をしているつもりだったんです。

が、違うとこから「わたし、ここも頑張ってたの!」と。

え、そこ?あー、でも、確かに、的な。


でも、そこ、実は誰も求めてない部分の頑張りなんじゃ…?というようなことろでもあり。


それでも、知らず知らず頑張っちゃうのは、もう癖になっているんですよね。そして、それをやめるのが潜在的に怖いんです。考えるより前に、もう怖いから頑張っちゃう。


けれど、それをやめたい、と今回ちゃんと自覚できた感じがある。


怖い、を越えたい。


そんなこんなでここ数日、頑張らないそのままの自分、を意識して日々を過ごしているんだけれど、すごく難しいです。

頑張ることが当たり前になってるんですよね、気付いたらそっちに振れてる。今までどんだけ頑張ってきたんだろうと思う。


側から見れば、ずっと前からわかっていたことなのかもしれない。けど、自分では全然わかってなくて、そして自分から気付かないと納得しないという面倒な性格なので、いっこいっこ試して、失敗して、傷付いて、慰めてもらったり、突き放してもらったりしながら、また立ち上がって試して、という試行錯誤が必要で。


難儀なもんやなあ、と思う。

けど、ちょっぴりたのしかったりもする。

一足飛びではいけないから、地道に。

ふと、自分の年齢や状況を鑑みた時に焦るけれど、焦ったところで好転もせんし。

今をたのしもうと思っています。

わたし、繊細なんで。

このあいだ、久しぶりにのんびりと江の島散策をしてきた。

以前から気になっていた映画館を訪ね、江の島に登り、はじめて船にも乗った。

曇り空の合間の青空で、あたたかく、気持ちのいい日だった。

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「さきこさんは、もっと自分が繊細なんだってことをちゃんと自覚した方がいい。私、繊細なんで!って自己紹介するくらいでもいい」

言われたその時は、多分、全然わかってなくて、けど、わかってないことがわかってなかった。

繊細、という言葉からメンタル面ばかりを見てしまっていて、自分は他者の言葉や行動に傷つきやすい人なんだ、と更に強く認識したくらいだった。それは、多分、すこしネガティブなものだったと思う。

けれど、その後に続けて人がたくさん集まるような場所に一日中いることがあって、その場にいる時はたのしい気持ちが勝つから大丈夫なのだけれど、離れるとすごい疲労感で。
みんなそうなのかもしれないけど、もしかしたらわたしは、みんなよりもそういう環境で疲れやすいのかも、と人生で初めて思った。

人と話していても前や後ろや隣の人の会話が入ってくる。知らない人同士の会話や行動にいろいろと思いを馳せてしまう。ぼおっとしてると、いろんな情報がどんどん入ってくるから、しっかりしなきゃと気を張る。

繊細なのは感情だけじゃなくて、視覚とか聴覚とかの受信機もなのかもしれない。
だから、メンタルだけでなく、フィジカルも含めて、総量としての負担を考えるといいのかも。
感情、だけにスポットをあてるのではなく、わたし、として全体を見る。
人と会う時も、頼まれごとをする時も、その辺りまで見通していけたらいいな。見通せなくても、パニックになった時、全体で振り返ると要因がより明確になって怖くない。

人よりもずいぶんと怖がりだから、いろんな予防線を張ってしまうのだけれど。
何かあってもわたしは大丈夫よ、と自分に言ってあげられる、そんなわたしでありたいと、そんなことを思ったんだ。

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ポエムができた。

大人というものが、思っていたよりも完璧でなく、強くもなく、美しくもないのだと、認めたくなくて、見ないですむのなら、ずっと、子どものままでいいやって思ってた。

怖いって気持ちを、弱い、とか、可哀想、とか、病んでる、とかに変換して、だから仕方ないって思って見逃して欲しかった。


だって、どうせ、あんたにはわかんないじゃん。


心の中では見下して、つまんないって思ってて、楽しいふりをして、嬉しいふりをして、悲しむふりをして、敬うふりをして、励ますふりをして、だって、こういうのが欲しいんでしょう。


それなのに、それだから?


ずっと本当には楽しくなくて、どこか、ずっと重たくて、助けて欲しくて、けど、どうせって、でも、諦められなくて、たどり着いた先で、どうしてこんなに、奥に奥に入ってくるの。

ほら、まだあるじゃないって、笑うの。

わかったふりするなって、怒ってくれるの。


奥だと思ってた、もっと奥。

恥ずかしくて、見られたくなくて、でも、なんだろう、これは、うれしいのか。

気付いてくれたって、うれしいのか。

でも、やっぱり、どうしてって。


「好きだからよ」


シンプルな答え。余韻。

なんで、と、うれしい、と、

言葉にならなくて、涙。


なんで、今更

今、やっと


春の嵐、ぐるぐる、

さくら、空、新緑、巻き込んで、

カラフルな嵐



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言葉にする、言葉になる

こんばんは、さきこです。

マンションの一角につくしが大量に生えてる。
食べれるのかな…

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ーーーーー

「言葉にしないと、わからない」

と、いうのが苦手で。
恋愛面で言えば「察してよ!」はダメ、とか、療育現場で言えば言葉より先に手が出てしまうことを叱らねばならぬ、とか。

恋愛の場合は、感情よりも行動に関しての面が強い(洗濯物の畳み方が違うことが嫌、とか具体的な行動がある)ので、まだわかりやすいのだけれど、療育現場での「言葉でちゃんと伝えなさい」は、わたしは子どもたちに言えなかった。
手が出てしまうに至るまでに、複数の理由が絡み合っている場合も多いような気がして、というか単純に、自分ができないからだ。

強い気持ちが、ぐわっ!と出た時、それを言葉にして伝えることができない。
けれど、自分の中で処理できない程の衝動なので瞬間的に行動になる。(わたしの場合は物にあたる)

一番印象的だったのは、ぷつっとお腹の底から言葉にならないものが出てきて、気がついたら持っていたグラスが割れてて血が流れていたこと。

怖かったな。

そんな感情を自分が持っているんだってこと。
他者から怯えた目で見られる行為を無意識にしてしまう自分がいること。

衝動的な行動をしてしまう子どもたちも、少なからず同じ気持ちなのだろうか。
そう思ったら、「言葉にしなさい」と言えなかった。

とは言え、コミュニケーションを取る上で言葉はやはり必要で、理解し合う上で上手に使っていきたいツールでもある。
言葉にすることで始めて自分の気持ちや考えを具体的に掴むことができるのも事実だ。

だから、「言葉にする」必要性を頭では理解していた。けど、「言葉にできない」自分も確かにいて、それも事実で。
その辺りでずっともやもやしていた。

言葉にできない感情もある。
言葉にしないと伝えられない。

ーーーーー

わたしは自分の気持ちをリアルタイムで正確に理解することがあまり得意でない。
特にビジネスの場においては、もう、ほとんど100%くらいで「疲れた」がわからない。
気付かないうちに蓄積した疲労は、溢れそうになると、過食衝動や他者への攻撃性、情緒不安定など、様々な症状でわたしに疲れを教えてくれる。

けれど、それでは疲れ切ってから知ることになるのでリカバリーに時間がかかり過ぎたりして(だからカンボジアに行っちゃったりする)何かと不便、と今年に入ってから対話型のカウンセリングを受けている。

内容としては1時間、先生に自分の話したいことを話す、というもの。

始めた頃は、今まで言えなかった弱音とか、しんどかったこととか、とりあえず話して泣いてすっきりして帰る、ということを繰り返していた。

ひと月ほど経って、特別話したいこともなくなって、自分の中の不幸や弱さを無理やり探して言葉にしている自分に気づいた時、ああ、これ、もう無意味かも、と思った。

カウンセリングを受ける「病人」としての言葉を探して出している感じがしたから。

だから、やめたいんです。と先生に伝えた時、先生はこう言った。

「言葉にするんじゃなくて、言葉になるんじゃないですかね。言葉になることを人に話す、その練習をこういう場でするんです」

ーーーーー

わたしは、多分、人生の多くの会話で、自分の気持ちや考えを「言葉にして」きた。
それは、頭で考えて話すイメージ。
ロジック立てられた、理性の言葉。

けれど、本当はずっと「言葉になる」会話がしたかったの。ロジックでは説明がつかない、でも何かとても大切な、お腹の底から出てくるイメージの、感情の言葉。

「言葉にする」会話には見えないルールがあって、そこから外れると何とも居心地の悪いものになる。上滑りしてしまって、一生懸命喋ってもどこか虚しい感じがする。

「言葉になる」会話は、怖い。
自分のほんとの本音の部分を出すことが、とても怖い。けれど、怖さを超えて出した言葉は、伝わっても伝わらなくても、ちゃんと出せた、という妙な満足感がある。

わたしの場合、なのですが。

「言葉になる」には時間が掛かったり、集中力を要するので、全ての会話で行うつもりは更々ないのだけれど、場面場面で「言葉になる」会話を織り交ぜていきたいなあ。

そんなことを、練習し始めています。
春、新しいスタートです。

やさしいことはダメなこと?

最近、というか前からかな、よく「やさし過ぎるのがよくない」とか「もっと強くならないとダメだよ」と言われます。

「だから、さきちゃんはー」とか、たくさん言われた訳ではないと思うのだけれど、そのフレーズが呪いのようにここ数日頭の中をぐるぐるしていました。だいぶ昔の、声でした。

相手は覚えていないのだろう。
相手はわたしのために言ってくれたのに。

と、思いながらも、

それでも腹立つし。
そんなん知らんし。

と、思う。

些細なこと。
いつまでも気にするなんて、と言われること。
それでも考えちゃって、明るさを知らず知らずに装って、それに気付かされて恥ずかしくなって、泣いて、疲れて。

そんな小さな、胸に引っかかった小骨を、ぽろりと人に言ってみたら、するりと元気になって。

言うまでにすごく時間がかかったけど。
めっちゃ、ちっちゃいことだけど。

話して、共感してもらって、安心した。
それと、自分の性格悪い部分もはじめてちゃんと理解したいって思えた。
ネチネチしていて、クヨクヨしていて、カオナシが吐き出す黒いやつみたいな気持ち悪いやつ。


わたしは、たぶん一生やさしいままだと思う。
だからその分、利用されたり、傷付けられたり、するのだと思う。

それでも、わたしはやさしいままでいたい。

誰かにやさしくしてあげたいから、とかそんな高尚なものでなく、やさしいわたしが、わたしは好きなのだ。

その都度その都度傷付く自分が、それでもまた立ち上がって、その度に変わっていく自分が、どうしようもなく愛おしいのだ。

けれど、これまでのペースよりもう少し早くリカバリーできるだけの力は欲しいな。
しんどいし。

それには、どうやら人や動物や自然や、他のいのちに助けてもらえると早そうなのだと気付き始めました。

依存ではなく、信頼したい。

地球の上にちゃんと自分の足で立って、いのちに触れて、そのあたたかさをちゃんと感じたい。

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はあ、さて、カラオケでも行くかなー。

カンボジア旅行記🇰🇭その⑤郊外定番遺跡「ベンメリア」ツアーには申し込むべきか?

おはようございます、さきこです。

早いもので3月も、もう終わりですね。
桜もハラリとし始め、なんか、もう夏きますね。

さて、カンボジアアンコール・ワットの次に有名と言っても過言ではない「ベンメリア」。
知らなーい、という方も写真を見て、この一言を聞けば知らなくても納得するのでは。

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ラピュタのモデルになったとこだよー」

この一言で、うわ!行ってみたい!!とちょっとテンションあがりませんか。わたしはあがって、ここ行く!と即決しました。

日本で調べると、『ベンメリアまでは市街地から約40キロ。シェムリアップからのツアーが便利。』くらいしか情報がなくて。
いや、調べればもっとあったのかも知れないけど、わたしがリーチできたのはその程度で。
現地でどれだけ言葉が通じるかもわからないし、治安も謎だし、そもそも相場がわからないからぼったくられたら嫌だし…と日本でツアーを申し込んで行きました。

一人参加、ガイド、チケット、ランチ付きで90ドルくらい。半日プログラムなので、まあそんなもんかな、と。
ちなみにアンコール・ワットの朝日観光も日本で申し込んで行きました。こちらはチケット代なしで50ドルくらい。

結論から言うと、ツアーは現地で申し込んだ方が断然良い!と思う。
ベンメリアチケットは2018年2月時点で5ドル(現地で会った日本人の女の子が「人気スポットだし値上がりしそうですよねー」と言っていて確かにその内、倍くらいになりそう…と思った)、トゥクトゥクで往復するだけなら人数を集めれば1人15〜20ドルで行けますトゥクトゥクは4人乗り。1台でいくら、という大体の相場があります)
単純に行って遺跡見るだけなら20〜25ドル。

日本で申し込んだツアーと、現地でトゥクトゥクチャーターで2回ベンメリアに行ったのですが(おかちゃんには「なんでまた行くの!?」と笑われましたが)、断然後者が楽しめました。

わたしは、ガイドさんの説明は「へー」くらいで右から左に流れちゃうし、レストランでのランチよりも現地の人と混ざってご飯食べたいし、気になるところはじっくり見たいから、そもそも他のお客さんと一緒に行動しなきゃいけないツアーが苦手なのです。他のお客さんやガイドさんに気を遣っちゃって全然楽しめないんですよね。じゃあツアーで行くなって感じなんですけどね。笑

けど、そこは、前述した通り

・どこまで言葉が通じて
・危なくないのか

が日本からでは見えなかったから。
現地に行った今では、

・日本人経営の宿に泊まっているのはほぼ日本人なので情報交換が可能
・日本人経営の宿近くには日本語を話せる現地人がいる
・ある程度の危機管理を持っていれば女性のひとり旅でも問題はない

と、体感しました。
なので、ツアーがいいのか、その他の方法がいいのか、現地で自分の目で見て、交渉して、納得したものを選ぶといいと思う。

さて、ベンメリアの話に戻ります。
ラピュタのモデル、Google画像の写真たちから、もう、ものっすごく神秘的な場所を想像していたのですが…

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めちゃくちゃ人がいるんですよねー…。
特にツアーで行った時間帯は、どこの国もツアー客が多く、中国の方の団体とか…うん、ご想像にお任せします。

そんな訳で、写真で見るといい感じのスポットなんだなあ、という印象を持ってしまいました。
遺跡はすごいんだろうけど、わたしは人の多さに萎えてしまいました。

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(広いので人を避けて写真を撮ることはできます)


2回目に行った時に同乗した女の子が以前にも来たことがあるらしく、その時に比べて観光客がすごい多い、と。
2年前にはこの下も歩けたんですよー、と。

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マジか!いーなーってか、え、この石のとこ?いや、でも結構危なくないか?え、でも、いーなー、いーなーーー、となりました。

そう考えると今は規制がかかっていない場所も、数年後には入れなかったり登れなくなったりするのかも知れませんね。
遺跡を縦横無尽に歩き回りたい方は、お早めに。

トゥクトゥクチャーターの日はお馴染みおかちゃんに連れて行ってもらって(忘れちゃった人は前の記事とか読み返してくださいー)、そしておかちゃんはドライバーなのに簡単なガイドはできるので、もうそれで大満足でした。

更には穴場スポットにも連れて行ってくれて、そこは本当に人がいなくて、静かで。

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みんなで木のブランコを満喫して帰りました。
気持ちよかったなあ。