アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

人の目や世間体を気にするようになったのはいつからだろうか ‐補足‐

こんばんは。さきこです。

補足、というかタイトル的にはこれがメインなのでは、というお話が今回です。

テーマは「人の目を気にしなくなったのは何故なのか」。

何故、を問う前に、具体的にいつから気にしなくなったのかを考えてみます。

 

それは、もう本当に最近のことで、北海道に行ったことがきっかけです。理由はとても簡単で、単純に人の目がなかったからです。

 

※北海道話についてはこちらをどうぞ。

vegetaboo.hatenablog.com

 

見渡す限り自然で、関わる人も本当に限られる生活。街に出ても自分と同じような状況の人はいるにはいるけど、そんなに見ない。要は比較対象が少ないのです。

首都圏には人がたくさんいます。同じくらいの年齢、同じくらいの背格好、同じような仕事をしているのだろうな、と思う人。自分と近しいと思える人がたくさんいる。その人たちと自分を私は知らず知らずのうちに比較していました。あの人は私より細い、あの人の靴おしゃれだな、あの人よりは私の方が仕事出来そうだ、等々。その感情は大抵良いものではなくて、どんどん心が澱んでいくような感覚になりました。

知らず知らずにしてしまう癖は、自分自身の努力では改善しにくい。けれど、北海道にはその癖をしてしまう状況がない。人がいないから。

比較しない、という事がこんなにも心を軽くするとは思っていませんでした。

ただ同時に、この状況があるからこそ癖が発動しないのかも、という不安にも襲われました。人の多いところに戻ったら、また同じように周りと自分を比較して、あの嫌な感覚が戻ってきてしまうのではないか。

だから、しばらく北海道にいようと思いました。1年とか、もっと。そうしたら逆に、人と自分を比較しない癖がつくのではないか、と。

まあ、現実は半年も経たずに帰ってきちゃうんですけど。

 

さあ、帰ってきて、また人の目を気にするようになったのか、というと今のところまだ大丈夫です。それは北海道の余韻を引きずっている、というのもあるかもしれませんが、北海道に行ったことでわかった事があったからだと思っています。

 

人口が少ない、という事は、当然その人口に見合った分の消費施設しかありません。レジャーはパチンコかカラオケ、カフェは地元のおじさんおばさんがやっている喫茶店かドトール、ファストフードはマックかケンタ、服はユニクロしまむらか何かよくわからないジーンズ屋さん。

単身渡ったので友達もいません。一緒に働いていた子たちと仲良くはなりますが、基本休みは被りません。休みの日は一人でドライブに行くか、銭湯に行くか、録画したドラマを見るか、溜まった洗濯物をするか。誰かと会話することは、ほぼありません。

私はどうやらあまり物欲がないので、お店の選択肢が少ないことはあまり苦ではありませんでした。限られた中でお気に入りを見つけてそこに通う生活が、むしろ好きでした。店員さんに覚えてもらってちょっと会話したり、楽しかったです。

けれど、友達がいない、というのは滞在が長くなるにつれ、どんどん心を憂鬱にさせる事象でした。また、この歳になって恥ずかしいですが、親が近くにいない、という状況も。

私は社会人1年目で念願の一人暮らしを始め、一旦実家に戻り、社会人5年目くらいでもう一度家を出ました。何度か引っ越しの経験もありましたが、北海道に行った時が初めて、実家に帰ろうと思っても簡単には帰れない距離でした。当然、友達関係も然りです。

お互いに忙しくて近くにいても会えないのと、物理的に会えない距離にいるという事が、こんなにも意味が異なるのか、と痛感しました。絶対会えないのに、会いたい、なんて我儘じゃないのか、会う予定もないのに連絡をとってもいいのか。

まあ、そもそも私が使っていた部屋の電波が悪く、時にはまさかの圏外になっちゃってたんで連絡自体、物理的に取りにくかったんですけど。

 

3カ月を過ぎたあたりから「さみしい」と思うことが増えました。牧場の人たちはみんな優しかったです。シェアハウスでの生活もそれなりに楽しかったです。

けれど、両親や友達に一瞬でも会えたら、もっと楽しいことを私は知っているなあ。それくらい、今までの生活が幸せで恵まれていたんだなあ、と気付きました。

親のありがたみ、三十路にして気付く。

そして、同時に大事にしたいな、と思いました。

その為には、自分自身の余裕を作ることが何よりの条件だと思いました。関係が近くなればなるほど、「素の自分」を見せる時間が多くなる。その場しのぎの良い顔では到底しのげない。「素の自分」で相手を思いやる気持ちを持つためには、相当な余裕がないと難しい。時間的な余裕も、精神的な余裕も。

そうしたら無駄な時間を削っていくしかない。その一つが「自分と他人を比べて落ち込んでいる時間と心」でした。

いいじゃん、別に誰かより多少劣っていようが優れていようが、それよりも大事にしたい人の事をもう少し本気で考えようぜ、と。

頭で考えてこうしよう、というよりは、心が納得した、というか覚悟したのだと思います。

それからあまり人の目が気にならなくなりました。同じ年齢くらいの女性が子どもの手を引いて歩いているのを、以前は少し引け目を感じるというか、何故私は向こう側ではないんだろう、と思っていたのが、今では素晴らしく幸せで素敵な光景だな、と思えます。晴れの日なんか最高ですよ、まじで。いや、お母さんの大変さとかわからないけど、勝手に幸せ分けてもらってます。

 

今回の活動で、というかまあ形式上はずっと転職の際のテーマにしていた「余裕のある生活」。その本質を、何にもない状態にすることでやっと理解できたのかな、と思います。また忘れてしまうかもしれないけど、こうして記して、いつか見返して思い出すことはできそうです。

人生において本当に大事にしたいことが見つかると自然と無駄なものはやらなくなっていって、結果人の目が気にならなくなったよっていうとっても良い教科書的なお話でした。

 

≪余談≫

「大事にする」って言葉にするのは簡単だけど、実践するのって結構難しいんですよね。書きながら、いや自分、全然できてないやん、とか思うけど。けど少しずつ、努力していこうと思ってます。