アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

わたし、繊細なんで。

このあいだ、久しぶりにのんびりと江の島散策をしてきた。

以前から気になっていた映画館を訪ね、江の島に登り、はじめて船にも乗った。

曇り空の合間の青空で、あたたかく、気持ちのいい日だった。

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「さきこさんは、もっと自分が繊細なんだってことをちゃんと自覚した方がいい。私、繊細なんで!って自己紹介するくらいでもいい」

言われたその時は、多分、全然わかってなくて、けど、わかってないことがわかってなかった。

繊細、という言葉からメンタル面ばかりを見てしまっていて、自分は他者の言葉や行動に傷つきやすい人なんだ、と更に強く認識したくらいだった。それは、多分、すこしネガティブなものだったと思う。

けれど、その後に続けて人がたくさん集まるような場所に一日中いることがあって、その場にいる時はたのしい気持ちが勝つから大丈夫なのだけれど、離れるとすごい疲労感で。
みんなそうなのかもしれないけど、もしかしたらわたしは、みんなよりもそういう環境で疲れやすいのかも、と人生で初めて思った。

人と話していても前や後ろや隣の人の会話が入ってくる。知らない人同士の会話や行動にいろいろと思いを馳せてしまう。ぼおっとしてると、いろんな情報がどんどん入ってくるから、しっかりしなきゃと気を張る。

繊細なのは感情だけじゃなくて、視覚とか聴覚とかの受信機もなのかもしれない。
だから、メンタルだけでなく、フィジカルも含めて、総量としての負担を考えるといいのかも。
感情、だけにスポットをあてるのではなく、わたし、として全体を見る。
人と会う時も、頼まれごとをする時も、その辺りまで見通していけたらいいな。見通せなくても、パニックになった時、全体で振り返ると要因がより明確になって怖くない。

人よりもずいぶんと怖がりだから、いろんな予防線を張ってしまうのだけれど。
何かあってもわたしは大丈夫よ、と自分に言ってあげられる、そんなわたしでありたいと、そんなことを思ったんだ。

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ポエムができた。

大人というものが、思っていたよりも完璧でなく、強くもなく、美しくもないのだと、認めたくなくて、見ないですむのなら、ずっと、子どものままでいいやって思ってた。

怖いって気持ちを、弱い、とか、可哀想、とか、病んでる、とかに変換して、だから仕方ないって思って見逃して欲しかった。


だって、どうせ、あんたにはわかんないじゃん。


心の中では見下して、つまんないって思ってて、楽しいふりをして、嬉しいふりをして、悲しむふりをして、敬うふりをして、励ますふりをして、だって、こういうのが欲しいんでしょう。


それなのに、それだから?


ずっと本当には楽しくなくて、どこか、ずっと重たくて、助けて欲しくて、けど、どうせって、でも、諦められなくて、たどり着いた先で、どうしてこんなに、奥に奥に入ってくるの。

ほら、まだあるじゃないって、笑うの。

わかったふりするなって、怒ってくれるの。


奥だと思ってた、もっと奥。

恥ずかしくて、見られたくなくて、でも、なんだろう、これは、うれしいのか。

気付いてくれたって、うれしいのか。

でも、やっぱり、どうしてって。


「好きだからよ」


シンプルな答え。余韻。

なんで、と、うれしい、と、

言葉にならなくて、涙。


なんで、今更

今、やっと


春の嵐、ぐるぐる、

さくら、空、新緑、巻き込んで、

カラフルな嵐



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言葉にする、言葉になる

こんばんは、さきこです。

マンションの一角につくしが大量に生えてる。
食べれるのかな…

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ーーーーー

「言葉にしないと、わからない」

と、いうのが苦手で。
恋愛面で言えば「察してよ!」はダメ、とか、療育現場で言えば言葉より先に手が出てしまうことを叱らねばならぬ、とか。

恋愛の場合は、感情よりも行動に関しての面が強い(洗濯物の畳み方が違うことが嫌、とか具体的な行動がある)ので、まだわかりやすいのだけれど、療育現場での「言葉でちゃんと伝えなさい」は、わたしは子どもたちに言えなかった。
手が出てしまうに至るまでに、複数の理由が絡み合っている場合も多いような気がして、というか単純に、自分ができないからだ。

強い気持ちが、ぐわっ!と出た時、それを言葉にして伝えることができない。
けれど、自分の中で処理できない程の衝動なので瞬間的に行動になる。(わたしの場合は物にあたる)

一番印象的だったのは、ぷつっとお腹の底から言葉にならないものが出てきて、気がついたら持っていたグラスが割れてて血が流れていたこと。

怖かったな。

そんな感情を自分が持っているんだってこと。
他者から怯えた目で見られる行為を無意識にしてしまう自分がいること。

衝動的な行動をしてしまう子どもたちも、少なからず同じ気持ちなのだろうか。
そう思ったら、「言葉にしなさい」と言えなかった。

とは言え、コミュニケーションを取る上で言葉はやはり必要で、理解し合う上で上手に使っていきたいツールでもある。
言葉にすることで始めて自分の気持ちや考えを具体的に掴むことができるのも事実だ。

だから、「言葉にする」必要性を頭では理解していた。けど、「言葉にできない」自分も確かにいて、それも事実で。
その辺りでずっともやもやしていた。

言葉にできない感情もある。
言葉にしないと伝えられない。

ーーーーー

わたしは自分の気持ちをリアルタイムで正確に理解することがあまり得意でない。
特にビジネスの場においては、もう、ほとんど100%くらいで「疲れた」がわからない。
気付かないうちに蓄積した疲労は、溢れそうになると、過食衝動や他者への攻撃性、情緒不安定など、様々な症状でわたしに疲れを教えてくれる。

けれど、それでは疲れ切ってから知ることになるのでリカバリーに時間がかかり過ぎたりして(だからカンボジアに行っちゃったりする)何かと不便、と今年に入ってから対話型のカウンセリングを受けている。

内容としては1時間、先生に自分の話したいことを話す、というもの。

始めた頃は、今まで言えなかった弱音とか、しんどかったこととか、とりあえず話して泣いてすっきりして帰る、ということを繰り返していた。

ひと月ほど経って、特別話したいこともなくなって、自分の中の不幸や弱さを無理やり探して言葉にしている自分に気づいた時、ああ、これ、もう無意味かも、と思った。

カウンセリングを受ける「病人」としての言葉を探して出している感じがしたから。

だから、やめたいんです。と先生に伝えた時、先生はこう言った。

「言葉にするんじゃなくて、言葉になるんじゃないですかね。言葉になることを人に話す、その練習をこういう場でするんです」

ーーーーー

わたしは、多分、人生の多くの会話で、自分の気持ちや考えを「言葉にして」きた。
それは、頭で考えて話すイメージ。
ロジック立てられた、理性の言葉。

けれど、本当はずっと「言葉になる」会話がしたかったの。ロジックでは説明がつかない、でも何かとても大切な、お腹の底から出てくるイメージの、感情の言葉。

「言葉にする」会話には見えないルールがあって、そこから外れると何とも居心地の悪いものになる。上滑りしてしまって、一生懸命喋ってもどこか虚しい感じがする。

「言葉になる」会話は、怖い。
自分のほんとの本音の部分を出すことが、とても怖い。けれど、怖さを超えて出した言葉は、伝わっても伝わらなくても、ちゃんと出せた、という妙な満足感がある。

わたしの場合、なのですが。

「言葉になる」には時間が掛かったり、集中力を要するので、全ての会話で行うつもりは更々ないのだけれど、場面場面で「言葉になる」会話を織り交ぜていきたいなあ。

そんなことを、練習し始めています。
春、新しいスタートです。

やさしいことはダメなこと?

最近、というか前からかな、よく「やさし過ぎるのがよくない」とか「もっと強くならないとダメだよ」と言われます。

「だから、さきちゃんはー」とか、たくさん言われた訳ではないと思うのだけれど、そのフレーズが呪いのようにここ数日頭の中をぐるぐるしていました。だいぶ昔の、声でした。

相手は覚えていないのだろう。
相手はわたしのために言ってくれたのに。

と、思いながらも、

それでも腹立つし。
そんなん知らんし。

と、思う。

些細なこと。
いつまでも気にするなんて、と言われること。
それでも考えちゃって、明るさを知らず知らずに装って、それに気付かされて恥ずかしくなって、泣いて、疲れて。

そんな小さな、胸に引っかかった小骨を、ぽろりと人に言ってみたら、するりと元気になって。

言うまでにすごく時間がかかったけど。
めっちゃ、ちっちゃいことだけど。

話して、共感してもらって、安心した。
それと、自分の性格悪い部分もはじめてちゃんと理解したいって思えた。
ネチネチしていて、クヨクヨしていて、カオナシが吐き出す黒いやつみたいな気持ち悪いやつ。


わたしは、たぶん一生やさしいままだと思う。
だからその分、利用されたり、傷付けられたり、するのだと思う。

それでも、わたしはやさしいままでいたい。

誰かにやさしくしてあげたいから、とかそんな高尚なものでなく、やさしいわたしが、わたしは好きなのだ。

その都度その都度傷付く自分が、それでもまた立ち上がって、その度に変わっていく自分が、どうしようもなく愛おしいのだ。

けれど、これまでのペースよりもう少し早くリカバリーできるだけの力は欲しいな。
しんどいし。

それには、どうやら人や動物や自然や、他のいのちに助けてもらえると早そうなのだと気付き始めました。

依存ではなく、信頼したい。

地球の上にちゃんと自分の足で立って、いのちに触れて、そのあたたかさをちゃんと感じたい。

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はあ、さて、カラオケでも行くかなー。

カンボジア旅行記🇰🇭その⑤郊外定番遺跡「ベンメリア」ツアーには申し込むべきか?

おはようございます、さきこです。

早いもので3月も、もう終わりですね。
桜もハラリとし始め、なんか、もう夏きますね。

さて、カンボジアアンコール・ワットの次に有名と言っても過言ではない「ベンメリア」。
知らなーい、という方も写真を見て、この一言を聞けば知らなくても納得するのでは。

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ラピュタのモデルになったとこだよー」

この一言で、うわ!行ってみたい!!とちょっとテンションあがりませんか。わたしはあがって、ここ行く!と即決しました。

日本で調べると、『ベンメリアまでは市街地から約40キロ。シェムリアップからのツアーが便利。』くらいしか情報がなくて。
いや、調べればもっとあったのかも知れないけど、わたしがリーチできたのはその程度で。
現地でどれだけ言葉が通じるかもわからないし、治安も謎だし、そもそも相場がわからないからぼったくられたら嫌だし…と日本でツアーを申し込んで行きました。

一人参加、ガイド、チケット、ランチ付きで90ドルくらい。半日プログラムなので、まあそんなもんかな、と。
ちなみにアンコール・ワットの朝日観光も日本で申し込んで行きました。こちらはチケット代なしで50ドルくらい。

結論から言うと、ツアーは現地で申し込んだ方が断然良い!と思う。
ベンメリアチケットは2018年2月時点で5ドル(現地で会った日本人の女の子が「人気スポットだし値上がりしそうですよねー」と言っていて確かにその内、倍くらいになりそう…と思った)、トゥクトゥクで往復するだけなら人数を集めれば1人15〜20ドルで行けますトゥクトゥクは4人乗り。1台でいくら、という大体の相場があります)
単純に行って遺跡見るだけなら20〜25ドル。

日本で申し込んだツアーと、現地でトゥクトゥクチャーターで2回ベンメリアに行ったのですが(おかちゃんには「なんでまた行くの!?」と笑われましたが)、断然後者が楽しめました。

わたしは、ガイドさんの説明は「へー」くらいで右から左に流れちゃうし、レストランでのランチよりも現地の人と混ざってご飯食べたいし、気になるところはじっくり見たいから、そもそも他のお客さんと一緒に行動しなきゃいけないツアーが苦手なのです。他のお客さんやガイドさんに気を遣っちゃって全然楽しめないんですよね。じゃあツアーで行くなって感じなんですけどね。笑

けど、そこは、前述した通り

・どこまで言葉が通じて
・危なくないのか

が日本からでは見えなかったから。
現地に行った今では、

・日本人経営の宿に泊まっているのはほぼ日本人なので情報交換が可能
・日本人経営の宿近くには日本語を話せる現地人がいる
・ある程度の危機管理を持っていれば女性のひとり旅でも問題はない

と、体感しました。
なので、ツアーがいいのか、その他の方法がいいのか、現地で自分の目で見て、交渉して、納得したものを選ぶといいと思う。

さて、ベンメリアの話に戻ります。
ラピュタのモデル、Google画像の写真たちから、もう、ものっすごく神秘的な場所を想像していたのですが…

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めちゃくちゃ人がいるんですよねー…。
特にツアーで行った時間帯は、どこの国もツアー客が多く、中国の方の団体とか…うん、ご想像にお任せします。

そんな訳で、写真で見るといい感じのスポットなんだなあ、という印象を持ってしまいました。
遺跡はすごいんだろうけど、わたしは人の多さに萎えてしまいました。

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(広いので人を避けて写真を撮ることはできます)


2回目に行った時に同乗した女の子が以前にも来たことがあるらしく、その時に比べて観光客がすごい多い、と。
2年前にはこの下も歩けたんですよー、と。

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マジか!いーなーってか、え、この石のとこ?いや、でも結構危なくないか?え、でも、いーなー、いーなーーー、となりました。

そう考えると今は規制がかかっていない場所も、数年後には入れなかったり登れなくなったりするのかも知れませんね。
遺跡を縦横無尽に歩き回りたい方は、お早めに。

トゥクトゥクチャーターの日はお馴染みおかちゃんに連れて行ってもらって(忘れちゃった人は前の記事とか読み返してくださいー)、そしておかちゃんはドライバーなのに簡単なガイドはできるので、もうそれで大満足でした。

更には穴場スポットにも連れて行ってくれて、そこは本当に人がいなくて、静かで。

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みんなで木のブランコを満喫して帰りました。
気持ちよかったなあ。

「孤独」は消せる。のか

こんばんは、さきこです。

今日は思わず買ってしまった本のレビュー。

『「孤独」は消せる。』という吉藤健太郎さんの著書です。

3月の初旬に発売されていて、友人が彼の会社で働いていたり、彼のツイッターで気にはなっていたのですが、こちらの記事を読んで、いや、これは買わねば!と本屋に走りました。


◯小さな星の懸け橋に/オリヒメがつなぐ

https://mainichi.jp/ch171295487i/小さな星の懸け橋に


レビューを書くにあたって、何故かキンコン西野さんの『革命のファンファーレ』が頭に浮かびました。

全くジャンルの異なる、考え方も異なるお二人がどうして脳内で繋がったのかな、と考えた時に、「ああ、泥臭い感じが似ているんだ」と思い当たりました。

その辺りがうまく言葉になったらいいな。


◯吉藤健太郎って何者だ


吉藤健太郎さん、吉藤オリィさんと言ったほうがいいかな。皆さんはご存知ですか?

ロボットコミュニケーターという新しい職業を作り、AIが注目されがちなロボット業界で、人と人を繋ぐ、どちらかというとアナログなロボットを作っています。


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(分身ロボット『OriHime(オリヒメ)』。自然に人の輪に馴染む愛らしいフォルム。詳しくはhttps://orihime.orylab.com


高校時代に文部科学大臣賞を受賞、青年版国民栄誉賞といわれる「人間力大賞」を得る他、AERA「日本を突破する100人」や米国フォーブス誌「30 Under 30 2016 ASIA」に選ばれるなど各界から注目を集める存在です。


こう書くと、あーすごーく優秀な天才的な人なんだねーへー、と遠い国の存在に感じますが、その実情はかなり泥臭い、という印象を著書から受けました。


ロボットを作るきっかけとなった3年半に渡るひきこもり時代の葛藤、人とのコミュニケーション方法を学ぶために思いつく可能性をひとつずつやってみる大学時代(社交性を身につけるために社交ダンス部に入ったくだりは思わず笑いました)、ロボットのアイディアが浮かべば出来る限り早くプロトタイプを作成し使ってもらって改善していく現在、プレゼンにかける準備の「そこまでするか」という徹底ぶり。

名誉ある部分だけ見れば、「天才」の一言で終わってしまうのだろうけれど、そこに至るまでの時間や行動は莫大。

氷山の一角ってこういう事なのかもしれない。


『「孤独」は消せる。』はそんな吉藤さんの自叙伝みたいなものでした。


◯結局、足で稼ぐしかないのだ


さて、そんなロボットコミュニケーター吉藤さんと絵本作家キンコン西野さんがどう繋がるのか。

それは、結局のところ自分が動く事でしか状況は動かせない、というところ。


キンコン西野さんは、マネタイズのタイミングを後ろにズラせ、先の先まで考えて一番利益を得られる可能性を探せ、と著書で書いており、理詰めで物事を進めていくタイプだと感じました。


対する吉藤さんは、思い立ったが吉日!タイプ。思い付いたら動かずにはいられない感覚派なのだと思います。


ロジカルな西野さん、フィーリングの吉藤さん。けれど、行動はほとんど同じなんです。


まずは、やってみる、ということ。


吉藤さんはロボットを作っては試し、改善してはまた試すという、「徹底的な現場主義」を自ら公言している。ので、「まずやってみる」精神の申し子とでも言えるのではというくらいわかりやすく「やってみて」いる。


一方の西野さんは「自分の時間を使うな!他人の時間を使え!」と著書に書いていて一見、この「やってみる」論からは外れるように見える。

けど、「やってみる」精神のない人が、自分の独演会チケットを1000枚手売りするだろうか。直売サイトで購入してくれた全ての著書に一つ一つ直筆サインを書いて郵送するだろうか。

ロジックで考えるそのベースには、その行動量があるのだと思います。


失敗してもいいからまずは試してみる。

その反応を見て、次の一手を考える。

その繰り返し。

これはリクルート時代に再三言われた「鬼のようにPDCAサイクルをまわせ!」とも一致したりもして。

リーディングパーソンやカンパニーはジャンル問わず、共通項が多いのかもしれません。


◯「孤独」はコミュニケーションの場を整えることで解消されるのか


吉藤さんがつくりたいのは、「その人が、そこにいる」という価値だと著書で述べています。

コミュニケーションが取りたいのに、身体や心の事情によりコミュニケーションの場に行けない人がいる。

それを分身ロボットでサポートすれば、コミュニケーションの場に参加ができ、「孤独」が解消されるのだと言う。


素敵な心意気だなあ、と思う反面、けどなあと思う節がある。


それは、そもそもコミュニケーションの場に行きたいと思わない人だっている、と思うからだ。思わない人、と言うよりかは、思えない状況の渦中にいる人、かな。

まさにわたしはそのタイプ。


調子が良い時は人と繋がりたいと思うけど、そうじゃない時は全てをシャットアウトしたい。

シャットアウトしている時に、外の世界からノックをされて、OriHimeを紹介されても、それさえも出来ない、したくない、と思ってしまうのです。


コミュニケーションは相手との関係性とともに、自分自身との関係性も大いに寄与するところがあると思っていて。

気持ちのいいコミュニケーションは、相手だけでなく、自分自身とも良い関係が築けていないと難しいのではないかと考えています。


自分との良い関係っていろいろあると思うのだけれど、今、わたしが重きを置いているのは自分の感情をその時その時、確かに感じる事。

あー、そう思ってるのねと受け止める事。


そんなん当たり前じゃん、と思う方もいるかも知れません。

けど、これって結構難しいとわたしは思います。現にわたしは今まで出来ていませんでした。そして、出来ていないことにも気付いていませんでした。


誰かの反応を見て好き嫌いを判断する。

嫌な事だけど周りに合わせて行動する。

そんなことを繰り返していくうちに、段々と自分の感情に鈍感になってしまう。


周りに合わせることは集団行動においてある程度は必要だ、というご意見があるかも知れません。

その通りだと思います。

けれど、ここで問題なのは「どう行動するか」ではなく、「どう感じているかを認識できるか」です。


嫌だなあって思ったけどその場では断りきれなかった、と分かっていれば、自分はこれが好きじゃないんだ、とわかり、次から同じような状況を避けることもできます。

けど、そもそも嫌だと認識できなかったら。

また同じ状況に陥って、知らず知らずに傷付いて、気付いたら取り返しのつかないところまできてしまうこともある。


自分の気持ちを知ること。

それは、自分探しとはちょっと違って。

まだ、うまく言えないのですが。


だけど、わたしと同じように気持ちに鈍感になってしまって、そもそもどう感じたらいいのかわからなくなって、悩んでグルグルしちゃっている人、いると思うんです、それもかなりの数。


そこにアプローチできる何かをつくりたい。

そんなニーズないのかも知れないし、現状考えているツールが効果的でないかも知れない。

けど、そこは足で稼ぐしかない。

トライアンドエラーを繰り返しながらやっていきたいと思います。


あれ、レビューじゃなくなった

いや、その、一歩進む勇気をくれた本です!

『「孤独」は消せる。』も『革命のファンファーレ』も背中を押してくれる本。

感覚が合いそうだなあと思う方を読んでみるといいんじゃないかな。

どちらも熱量のある本ですよ。

年度の始まりに、是非。


◯「孤独」は消せる。/吉藤健太郎

https://www.amazon.co.jp/「孤独」は消せる


◯革命のファンファーレ 

https://www.amazon.co.jp/革命のファンファーレ-現代のお金と広告-西野-亮廣

カンボジア旅行記🇰🇭その④郊外おすすめ遺跡「プノン・クーレン」

こんばんは、さきこです。

昨日の雪が夢かのように午後から春の晴れ間でしたね。鎌倉にランチに行ったのですが、帰り道ぽかぽかでやっぱりわたしはあったかい方がいいなあ、と実感しました。

さて、今日は少しシェムリアップ市街地から離れてみます。

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市内からトゥクトゥクで小1時間、更にバイタクシーに乗り換えて30分ほど行ったところにある「プノン・クーレン」という場所。

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(まさに山の中のお寺、という感じ)

プノン・クーレンにはプリア・アン・トム寺院や滝、千本のリンガなどの遺跡があり、生活(宗教)と自然と遺跡が同居した空間と言えます。
その為、観光地というよりは地元の方に親しまれている場所という側面が大きい。

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(日曜日だった為、地元の人たちがお祈りにきていた)

プリア・アン・トムには巨大な涅槃仏プレア・アントンがいらっしゃいます。

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(大きすぎて画面に収まりきらない…)

この寺院、面白いのはヒンドゥー教と仏教が混在しているところ。
調べてみると、カンボジアという国自体に二つの宗教が混在しているようです。
もともとヒンドゥー教だったアンコール王朝が衰退し、タイの支配下になった際、仏教に塗り替えられたようです。
(ネット知識です。違っていたらごめんなさい)

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(涅槃仏(仏教)の麓にリンガとヨニ(ヒンドゥー教)がある)

リンガは男性器、ヨニは女性器を模し、繁栄の象徴として祀られています。
お作法としては、リンガに水を掛け、ヨニの一方向だけにある樋から流れる水を手で受け取り、顔や頭を清める、という流れ。

ここも例によっておかちゃんに連れて行ってもらい、彼はお寺内のいろんな所(日本でいう摂社的な場所)でお賽銭をしていました。
なので「おかちゃんは仏教徒なの?ヒンドゥー教徒なの?」と聞くと「どっちもだよー」と。

…え、そんなゆるい感じでいいの?ヒンドゥー教って戒律とかかなり厳しいやつじゃなかったっけ??とか疑問に思いつつ、現地の人はそんな感じなのかなあとも思ったり。
けど、おかちゃんとご飯食べる機会が何度かあったけどいつもお魚だったし、やっぱ食べちゃいけないものとかあったのかなあ。
謎は深まるばかりですが、寺院自体はオープンな雰囲気で、賑やかで日本のお寺とはまた違った空気感でした。

プリア・アン・トムから少し離れたところに千本のリンガがあります。
おかちゃんから「千のリンガ」と聞いて、いやいや、いくらなんでも千はないだろー、千ありそうなくらいいっぱいあるのかなー、と思っていました。そんな千本のリンガがこちら。

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(ちょっと見にくいですが、水面下にリンガがあるのが見えますでしょうか…?)


まさかの川の中!
しかも整然と無数に川上まで続いている。
これ、本当に千あるやつや…と思いました。

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(ヨニもある)

そして、これ、彫ったやつを川に並べたんじゃないんですよ。
“川の中に”彫ったんですよ…!
いや、おかちゃん情報だから真偽のほどは微妙だけれども。
けど、本当であれば、水の中で石に彫刻を施したって、これ、ほんとすごい。
流れる川の中で、揺らめく水中に、正確に正方形と正円を立体で彫っていく。
並大抵のことではない。

…本当に水の中で彫ったのかな……疑問。。

そして、わたしのテンションが滞在中マックスで上がったのが滝!

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日本で滝の観光地というと華厳の滝などをイメージすると思うのですが、当然、中には入れないですよね。
てか、日本の観光地って基本、観れるけど触れないことが多くないですか?(美術館も基本触っちゃダメだし。ルーブルとか、彫刻バンバン触れた思い出がある)
けど、ご覧の通り、ここの滝は入りたい放題!

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(日曜日だったので現地の家族連れが目立つ)

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(高低差の少ないところでは子どもたちがきゃっきゃしている)

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(浮き輪の貸し出しもしていました)

前日に宿の前にいるトゥクトゥクドライバーたちに「滝に行くなら水着いるよー」と言われて、「いやいや、水着になりたくないし入らないよー」と言ったけれども。
持って来れば良かった…!と結構深く後悔。
今度カンボジア行く際には水着持って日長のんびり滝を楽しむ日を設けようと思いました。

乾季でこの水量の為、雨季は中に入って遊べないみたいです。
入場料20ドル+交通費(トゥクトゥク、バイクタクシー代)とそこそこ掛かりますが、自然を満喫したい人にはおすすめ!
そして個人的には地元の人たちが遊びに来ている休日がいいのでは、と。
現地の子どもたちのはしゃぎ声をBGMに、自然もお日さまもたっぷり補給できて…想像しただけで素敵な休日だなあ。