アラサー女子のジブンさがし

アラサー女子の日常雑感日記です。

自分、が基準

『10年後の仕事図鑑』という本を本屋さんでジャケ買いしました。
落合陽一さんは前々から気になっていたのだけれど、著書がいくつかあって選べず、堀江さんとの共著だったので読みやすそうかなーと思って手に取りました。

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https://www.amazon.co.jp/10年後の仕事図鑑-堀江-貴文/dp/4797394579

思った通り読みやすく、早い人なら2時間くらいあれば読めるのではないかな。

堀江さんの主張は一貫して「未来を予想なんてできない。だから今を生きろ。遊べ」というもの。
誰かが言う「為すべきこと」に嫌々取り組むなんて時間の無駄。自分が「成したいこと」を全力でやりきれ、と言う。

落合さんは、「自分で決定していこう。写経をするな、クリエイトしろ。アーティストであれ」というもの。
今後間違いなく台頭してくるAIにどの部分を任せ、自分は何をするのか。自分のしたいことをはっきりさせよう、と言う。

研究者であり、また、メディアアーティストでもある落合さんは、以前から個人的に興味を持っている吉藤オリィさんと同業界・同世代の方で、著書がやたらに書店で取り上げられていて名前だけは知っていました。

落合さんもオリィさんもおんなじ感じの若者なのかな?と思って読んでいたけれど、全然違って、良い意味で広く浅くな感じの方でした。
オリィさんが深く太く地下に根を降ろす木であれば、落合さんは広く細かい根で地上を覆う植物みたいなイメージですね。
(オリィさんの著書もおもしろいので是非→【過去エントリ】「孤独」は消せる。のか/http://vegetaboo.hatenablog.com/entry/2018/03/23/221556

どちらの主張にも一貫しているのは「自分が基準である」ということ。
社会通念に惑わされるな、「普通」「当たり前」を疑え、自分の興味関心を大切にしろ、という、割と最近メジャーな考え方かと思います。

では、「自分」とは、何であろうか。

長い間自分を「探すこと」に時間を費やし、自分を「感じること」を蔑ろにしてきた私は思うのです。

「自分の感情に素直に」「ワクワクを大切に」。けれど、それが本当に自分起因なのか、他者起因なのか、今の世の中では気付きにくい。

テレビをつければ最近のトレンドがまとめられ、興味を持つべきものを提示してくる。
ネットを泳げば大量の情報に容易にアクセスでき、自分で考えなくてもそれっぽい答えをくれる。
顔認識自動販売機の前に立てば、おすすめの飲み物を教えてくれる(最近あまり見ない。需要なかったのかな)。
外側からの情報がそこここに溢れていて、内側への意識が向きにくくなる。

私は顔認識自動販売機の提案にはのらなかったけど、情報の海で出会う、誰かが「これ、いいよ」と言ったものを(発言者が素敵そうな人であれば尚更)片っ端から追いかけまくっていた時期があります。
ヨガや瞑想、ファスティング、星読み、心理学、カウンセリング、マインドフルネスワークなどなど。

一つのやり方として、それは悪いことではない。それらの活動のおかげで得られた知識や人との繋がりがあるのも事実。

けれど、根本的に「自分で感じる」、ということがわかっていなかったから、というか、わかったつもりでいたからタチが悪くて、だからなのか、結局長続きしない。
素敵な誰かが勧める方法をやりきれない自分が嫌になったりもした。
どうせ、私なんか。あの人と私は違うんだ。

けど、どんなにその人が素敵でも、大好きでも、その人にとっては良い方法が、私にとっての良い方法とは限らない。
そこを長い間、ずっと気付けなくて、だからずっと、自分というものをちゃんと考えてこなかったのだと思う。

どうして私はみんなみたいにできないんだろう、という思いを、本当にここ最近までずっと持っていた。

そんな私がここ数ヶ月、毎日続けていられている方法がある。
それは、『五輪色相環』というもの。

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五つの輪に、その時、自分が気になった色を気になった順番に塗っていく。
自分の感情という、見えないものを色を使って可視化する。
元々絵を描くことが好きで、色と遊ぶのが好きで、だから抵抗感なく取り組めた。

感情を色として紙に出してみると、漠然とした不安とか、もやもやする・イライラする、の奥にある原因に気付く。

外的要因に神経過敏になっているな、一人で考え過ぎて動けなくなっているな、他者に対して一歩踏み込むのを怖がっているな、思った通りに進まなくて焦っているな、云々。
ポジティブな気持ちもおんなじで、誰かとコミュニケーションを取れて嬉しい、とか、自分を素直を表現できて気持ちいい、とか。

自分でやって自分で分析するから、知識が先行して建前の色になるときもある。分析が必要以上に悲観的だったり、こうあって欲しいという希望的観測だったりすることもある。
そもそも色で本当に自分の感情を表せるのか、という意見もあるかもしれない。

けれど、ひとつの指針となるのは確か。
自分を一瞬でも俯瞰できるのは確か。

1日のうちのどこかで、自分の内側を観察する時間をほんの少しでも取れることが、日々の安定に繋がっている気がするのです。

もちろん、イライラするときもあるし、腹が立つときもある。けれど、以前よりも突発的な破壊衝動とか、底の見えない過食衝動は減っているように思う。

結局は、これも誰かが作った方法なんですけどね。自分にはとても合っていたよ、というお話です。

みんなやってる、とか、今流行りの、とか、そういうので決めず、ちゃんと自分で体験して、体感して、納得して、そうやって自分に合うもの、大切なもの、好きなものを見つけていけたらいいなあ、と思う。

ちょっと強引なロジックだったかな。笑
冒頭で述べた『10年後の仕事図鑑』気になる方いれば差し上げます。
五輪色相環も気になる方がいたらお声掛けください。誰かにやってみたい。

とりとめもなく

久しぶりに川崎に来た。

夜行バスに乗って大阪に向かう。
家の近くからも出るのだけれど、独立シートのいいやつは、都会からしか出ないのだ。
数ヶ月前に格安の夜行に乗った時、翌日朦朧とした頭で一日を過ごし、激しく後悔した。
だから、いいやつに乗る。

書きたいことがあるのだけれど、今だと変なところに着地しそうで、やめた。

だから、とりとめもなく言葉を紡ぐ。

とりとめもなく、と枕詞を置くと、最果タヒの詩が思い浮かぶ。
地元のネパール料理屋でバイト中に見つけた詩集、最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は作者名と表題は聞いたことがあって、けれど手に取ったことはなかった。

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とりとめもなく突然に、恋をすることはロマンチックで、だから突然、誰かを憎むこと、それもポエジーだって言いたい
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彼女の詩には、死とか憎むとか嫌いだとかかわいそうだとか、そういう言葉で溢れている。
気怠いような気配があるのに、パキッとしていて冬の空気のようだったりする。夏の湿度が高い夜の気配がある。

よくわからないけど、声に出したくなる。
音が綺麗なのか、字面が綺麗なのか。
何度も声に出すのはいくつかの決まったもので、前述の一節は『やぶれかぶれ』という。
全文載ってるから気になる方は検索を。

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何でもあって、何にもない街、川崎

数年前、ここに住んでいた頃、友達とそう言っては笑った。
年々おしゃれになるこの街は、全部どこかの成功事例でできてるって思う。
必要なものは何でもある。けれど全部がどこかの二番煎じ。表参道にある雑貨チェーン、渋谷で話題のアジアン料理屋、みたいな。
だから、これが欲しい!がないんだ。
いや、知らんけど。眼鏡なしで歩く街はぼんやりとした、滲んだ色で構成された世界だから、私が気付けないだけで今はオリジナリティある素敵なお店があるのかもしれない。

確かに、スタバで「最強においしいやつあるんですよ!」という接客を聞けるのはここだけかもしれない。

そんなこんなで大阪行ってきます。
日曜日には帰ります。
何をしに行くのか。移動をしに行くんです。

目的地だけある旅がすきだ。
あてもないのは苦手。
細かく決まっているのも苦手。

誰かに会いにいく、でも、
何かを食べに行く、でも、
海を見る、なんかでも、なんでもいい。
一個でいい。そこを目指して移動をする。

歩いて、自転車で、車で、電車で、バスで、飛行機で、寝台列車で、新幹線で、船でそれはその時の気分によるけど。
風を感じながら、あるいはものすごいスピードで、地上からは感じられない雰囲気で、流れていく世界を見る。

とりとめない、とりとめないなあ。
お付き合いくださり、ありがとう。

イライラを見つめる

ここ数日、ずっとイライラしていました。

些細なことが気になって、それこそドアの閉め方とか、お願い事の仕方とか、椅子の座り方だとか、家族にも知り合いにも職場の人にも通勤ラッシュの混雑にも横断歩道で止まってくれない車にも、とりあえず何にでもイライライライラしてました。

きっと、はじめての事ではないのだろうけど、イライラしている自分を「イライラしてるなあ」と客観的に見れたのは、はじめてだったと思います。

今まではどうにかして自分の中でイライラを抑え込むようにしていました。(ただ、うまくいかず家族には八つ当たってました。)
そして極たまに、相手を徹底的に攻撃する、という対処法をとっていました。

これ、どっちもすごく傷付くんです。
自己処理と言っても大体は過食嘔吐に落ち着くし、相手を攻撃するのって最終的に自分に返ってくるし。

なので、今回はどちらも採用せず、とりあえず出てくる不満を一個ずつ観察してみました。
とか、格好良く言ってますが、どっちつかずで流れた結果、こうなっただけなのですが。

消化不良だった気持ちがどんどん出てきて、その時を思い出して心の中でめっちゃ相手を罵倒してみたり、理詰めで責め立ててみたり。なんか、相当怒ってた。

どうしてわかってくれないの!
どうせ、わかんないよ!
決めつけないでよ!

みたいな。
いや、めんどくさいな、私ってなった。笑

イライラが過ぎ去った今にしてみれば、あーそれ嫌だったんだねえ、とか、まだ思い返すくらい嫌なことだったのかー、と微笑ましいんだけれど、渦中の時はしんどかったなあ。

けど、抜けれた。
抜けれるんだ、と、普通に考えたら当たり前の事をちゃんと実感して、ちょっと安心した。
どんな状況であれ、一生続くことはないんだ。
これって、すごい安心感だと思う。


とはいえ、あまりにも急にやってくるので、先の見通しが立てにくいのが困る。
今回も随分前からの約束をごめんなさいしてしまったし。

まあ、困ると言ってもどうしようもないんだけれど。出来ることは、なるべく無理な予定を立てないことと、その都度謝ることくらい。
幸い、年々、自分の状況を適切に伝えられるようになってきているので、みんなわかってくれることが多い。
勇気を出して言葉で伝えることを本当にちょっとずつだけれどしてきた結果と、あとは世の中的に精神面の体調不良が一般化しているのも大きいのかな。

糸掛曼荼羅という、何にもしたくないけど何かしたいときのおもちゃも見つけたし。

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(糸の掛け数だけじゃなくて、ピンの数によっても表情が変わる。いろいろ試してみたいところ)

なので、あまり先々の予定が立てにくい私です。けれど、自分のペースでそれなりに楽しくやっています。おちこんだりもしたけれど、わたしは元気です。

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(らくがきとちょっと気取った写真はインスタでやってます。覗いてもらえるとうれしい。https://www.instagram.com/konosakiko/

さあ、明日明後日は仕事だー。
適度にやるぞー。

どんなに頑張ったって、どうせわかってくれない

こんばんは、さきこです。

ブログにする気はなかったのですが、書き出したら文字数多くなっちゃったのでこちらに。


最近、いろいろ揺らいでいて。

今までだったら「はい、おしまい!次!」だったのですが、今回はちゃんと見つめよう、と次に進みたくなる衝動を抑えて揺らいだ結果の自分を観察しています。

観察していくと、かなしくなって、苦しくなって、そしたら怒りが出てきて、最終的に「どんなに頑張ったって、どうせこうなる、わかってくれない」という言葉が出てきました。


「え、わたし、頑張ってたの…?」と衝撃を受けた。


自分では頑張っていないつもりだった。頑張っている部分も確かにあったけど、そこは自覚をしているつもりだったんです。

が、違うとこから「わたし、ここも頑張ってたの!」と。

え、そこ?あー、でも、確かに、的な。


でも、そこ、実は誰も求めてない部分の頑張りなんじゃ…?というようなことろでもあり。


それでも、知らず知らず頑張っちゃうのは、もう癖になっているんですよね。そして、それをやめるのが潜在的に怖いんです。考えるより前に、もう怖いから頑張っちゃう。


けれど、それをやめたい、と今回ちゃんと自覚できた感じがある。


怖い、を越えたい。


そんなこんなでここ数日、頑張らないそのままの自分、を意識して日々を過ごしているんだけれど、すごく難しいです。

頑張ることが当たり前になってるんですよね、気付いたらそっちに振れてる。今までどんだけ頑張ってきたんだろうと思う。


側から見れば、ずっと前からわかっていたことなのかもしれない。けど、自分では全然わかってなくて、そして自分から気付かないと納得しないという面倒な性格なので、いっこいっこ試して、失敗して、傷付いて、慰めてもらったり、突き放してもらったりしながら、また立ち上がって試して、という試行錯誤が必要で。


難儀なもんやなあ、と思う。

けど、ちょっぴりたのしかったりもする。

一足飛びではいけないから、地道に。

ふと、自分の年齢や状況を鑑みた時に焦るけれど、焦ったところで好転もせんし。

今をたのしもうと思っています。

わたし、繊細なんで。

このあいだ、久しぶりにのんびりと江の島散策をしてきた。

以前から気になっていた映画館を訪ね、江の島に登り、はじめて船にも乗った。

曇り空の合間の青空で、あたたかく、気持ちのいい日だった。

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「さきこさんは、もっと自分が繊細なんだってことをちゃんと自覚した方がいい。私、繊細なんで!って自己紹介するくらいでもいい」

言われたその時は、多分、全然わかってなくて、けど、わかってないことがわかってなかった。

繊細、という言葉からメンタル面ばかりを見てしまっていて、自分は他者の言葉や行動に傷つきやすい人なんだ、と更に強く認識したくらいだった。それは、多分、すこしネガティブなものだったと思う。

けれど、その後に続けて人がたくさん集まるような場所に一日中いることがあって、その場にいる時はたのしい気持ちが勝つから大丈夫なのだけれど、離れるとすごい疲労感で。
みんなそうなのかもしれないけど、もしかしたらわたしは、みんなよりもそういう環境で疲れやすいのかも、と人生で初めて思った。

人と話していても前や後ろや隣の人の会話が入ってくる。知らない人同士の会話や行動にいろいろと思いを馳せてしまう。ぼおっとしてると、いろんな情報がどんどん入ってくるから、しっかりしなきゃと気を張る。

繊細なのは感情だけじゃなくて、視覚とか聴覚とかの受信機もなのかもしれない。
だから、メンタルだけでなく、フィジカルも含めて、総量としての負担を考えるといいのかも。
感情、だけにスポットをあてるのではなく、わたし、として全体を見る。
人と会う時も、頼まれごとをする時も、その辺りまで見通していけたらいいな。見通せなくても、パニックになった時、全体で振り返ると要因がより明確になって怖くない。

人よりもずいぶんと怖がりだから、いろんな予防線を張ってしまうのだけれど。
何かあってもわたしは大丈夫よ、と自分に言ってあげられる、そんなわたしでありたいと、そんなことを思ったんだ。

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ポエムができた。

大人というものが、思っていたよりも完璧でなく、強くもなく、美しくもないのだと、認めたくなくて、見ないですむのなら、ずっと、子どものままでいいやって思ってた。

怖いって気持ちを、弱い、とか、可哀想、とか、病んでる、とかに変換して、だから仕方ないって思って見逃して欲しかった。


だって、どうせ、あんたにはわかんないじゃん。


心の中では見下して、つまんないって思ってて、楽しいふりをして、嬉しいふりをして、悲しむふりをして、敬うふりをして、励ますふりをして、だって、こういうのが欲しいんでしょう。


それなのに、それだから?


ずっと本当には楽しくなくて、どこか、ずっと重たくて、助けて欲しくて、けど、どうせって、でも、諦められなくて、たどり着いた先で、どうしてこんなに、奥に奥に入ってくるの。

ほら、まだあるじゃないって、笑うの。

わかったふりするなって、怒ってくれるの。


奥だと思ってた、もっと奥。

恥ずかしくて、見られたくなくて、でも、なんだろう、これは、うれしいのか。

気付いてくれたって、うれしいのか。

でも、やっぱり、どうしてって。


「好きだからよ」


シンプルな答え。余韻。

なんで、と、うれしい、と、

言葉にならなくて、涙。


なんで、今更

今、やっと


春の嵐、ぐるぐる、

さくら、空、新緑、巻き込んで、

カラフルな嵐



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言葉にする、言葉になる

こんばんは、さきこです。

マンションの一角につくしが大量に生えてる。
食べれるのかな…

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ーーーーー

「言葉にしないと、わからない」

と、いうのが苦手で。
恋愛面で言えば「察してよ!」はダメ、とか、療育現場で言えば言葉より先に手が出てしまうことを叱らねばならぬ、とか。

恋愛の場合は、感情よりも行動に関しての面が強い(洗濯物の畳み方が違うことが嫌、とか具体的な行動がある)ので、まだわかりやすいのだけれど、療育現場での「言葉でちゃんと伝えなさい」は、わたしは子どもたちに言えなかった。
手が出てしまうに至るまでに、複数の理由が絡み合っている場合も多いような気がして、というか単純に、自分ができないからだ。

強い気持ちが、ぐわっ!と出た時、それを言葉にして伝えることができない。
けれど、自分の中で処理できない程の衝動なので瞬間的に行動になる。(わたしの場合は物にあたる)

一番印象的だったのは、ぷつっとお腹の底から言葉にならないものが出てきて、気がついたら持っていたグラスが割れてて血が流れていたこと。

怖かったな。

そんな感情を自分が持っているんだってこと。
他者から怯えた目で見られる行為を無意識にしてしまう自分がいること。

衝動的な行動をしてしまう子どもたちも、少なからず同じ気持ちなのだろうか。
そう思ったら、「言葉にしなさい」と言えなかった。

とは言え、コミュニケーションを取る上で言葉はやはり必要で、理解し合う上で上手に使っていきたいツールでもある。
言葉にすることで始めて自分の気持ちや考えを具体的に掴むことができるのも事実だ。

だから、「言葉にする」必要性を頭では理解していた。けど、「言葉にできない」自分も確かにいて、それも事実で。
その辺りでずっともやもやしていた。

言葉にできない感情もある。
言葉にしないと伝えられない。

ーーーーー

わたしは自分の気持ちをリアルタイムで正確に理解することがあまり得意でない。
特にビジネスの場においては、もう、ほとんど100%くらいで「疲れた」がわからない。
気付かないうちに蓄積した疲労は、溢れそうになると、過食衝動や他者への攻撃性、情緒不安定など、様々な症状でわたしに疲れを教えてくれる。

けれど、それでは疲れ切ってから知ることになるのでリカバリーに時間がかかり過ぎたりして(だからカンボジアに行っちゃったりする)何かと不便、と今年に入ってから対話型のカウンセリングを受けている。

内容としては1時間、先生に自分の話したいことを話す、というもの。

始めた頃は、今まで言えなかった弱音とか、しんどかったこととか、とりあえず話して泣いてすっきりして帰る、ということを繰り返していた。

ひと月ほど経って、特別話したいこともなくなって、自分の中の不幸や弱さを無理やり探して言葉にしている自分に気づいた時、ああ、これ、もう無意味かも、と思った。

カウンセリングを受ける「病人」としての言葉を探して出している感じがしたから。

だから、やめたいんです。と先生に伝えた時、先生はこう言った。

「言葉にするんじゃなくて、言葉になるんじゃないですかね。言葉になることを人に話す、その練習をこういう場でするんです」

ーーーーー

わたしは、多分、人生の多くの会話で、自分の気持ちや考えを「言葉にして」きた。
それは、頭で考えて話すイメージ。
ロジック立てられた、理性の言葉。

けれど、本当はずっと「言葉になる」会話がしたかったの。ロジックでは説明がつかない、でも何かとても大切な、お腹の底から出てくるイメージの、感情の言葉。

「言葉にする」会話には見えないルールがあって、そこから外れると何とも居心地の悪いものになる。上滑りしてしまって、一生懸命喋ってもどこか虚しい感じがする。

「言葉になる」会話は、怖い。
自分のほんとの本音の部分を出すことが、とても怖い。けれど、怖さを超えて出した言葉は、伝わっても伝わらなくても、ちゃんと出せた、という妙な満足感がある。

わたしの場合、なのですが。

「言葉になる」には時間が掛かったり、集中力を要するので、全ての会話で行うつもりは更々ないのだけれど、場面場面で「言葉になる」会話を織り交ぜていきたいなあ。

そんなことを、練習し始めています。
春、新しいスタートです。